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正法眼蔵 有時 16

帰省禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

意欲とは、独自の存在としてあるに他ならない。言葉も独自の存在としてあり、他人によってつくられるとか生まれてくるというものではない。障害も独自の存在であって、何ものかによってつくられるというものではない。障害は障害そのものとして現実に姿を現しているのである。様々のものが独自の存在であるけれども、共通して言える事は時間において行われている。障害とは他の存在にとって障害となる事により、他の存在というものを通して具体的な姿を現しているのではあるけれども、他のものを邪魔をする事により、障害というものが他のものを破壊して現れて来るという事ではなくて、障害そのものは修飾的存在として現実に姿を現しているというのが我々の住んでいる世界の実態である。

そう言う点では、自分自身が他の人に出会うという事ではあるけれども、これは自分を中心にして問題を主体的に考えるならば、自分が人に出会うという事が言えるだけの事であって、それは客観的に見れば人間が人間に出会うという事でもある。さらに、その事を具体的な場面にそくして考えるならば、自分自身が自分に出会う事である。このような様々なとらえ方があるが、いずれも時間と言うものがないならば、現実にそういうものが現在の状態で現れると言う事はない。

この様な様々の捉え方のいずれもが、時間がなければ現れようがない。自分の意欲も、現実の世界における時間において現れるのであり、またそれを表現する言葉も、それらの意欲を巧みに表現するという場面において時間において有る。現に実現したということは、さらに具体的な事態として現実としてそこにあるのであり、まだ到来していないという事態も、現実というものとつかず離れずの状態における時間においてである。この様に理解すべきであり、この様に時間と言うものを現実において捉えるべきである。



          ―西嶋先生の話―

仏教の話を聞きますと無我、無心と言う言葉が、二言めには出てくる事がよくある。ところが無我、無心という事だけで、仏教と言うものが片付くかと言うと、仏教思想はそう簡単な教えではない。なぜかというと、無我の我、無心の心と言う字、これはいずれも人間が作り出した言葉であるから、この世の中に我というものがあり、心というものがあると決め付ける事が出来るかどうか非常に問題である。

ところが、我々は言葉にたいてい引きずり回されている。 だから、我という言葉があると、自分が間違いなくいると思い込む。そして、心と言う言葉があると、心と言うものは必ずあるはずだ、なければならないというふうに考える。我があるか心があるかという事は、非常に大きな哲学上の基本的な問題です。だから、そう簡単にあるとかないとかと言うことは出来ない。ただ、仏教が問題にしているのは、言葉が生まれる以前にすでにあったもの、言葉があろうとなかろうと、厳然として存在するものを問題にする。

そして、そういうものをとして捉えて、その法を自分自身が身につけた時に言葉があろうとなかろうと、本当のものが見えてくる。 これが仏教の教え。我々が坐禅をして何をやっているかと言うと、まさに言葉が生まれる以前の現実に触れているのであって、それが坐禅と言うものの実態である。我々が坐禅をして何をやっているか。まさに、言葉が生まれる以前の現実に触れている。

そういう現実に触れた境地がわかってくると、言葉があろうとなかろうと本当のものがわかってくる。本当のものを基準に生きていくと我々の生活はそう複雑なものではない。非常に単純なもので、どうしたらいいかという事は瞬間瞬間にすぐわかる。ところが今日では、色々と言葉が発達して人間の考え方も実に複雑になっている。その複雑になった考え方で、あれが本当か、これが本当かと色々思い悩むから、我々の人生そのものが非常に複雑になってしまう。

そうすると、調子がよくて高い波に乗っている時もあれば、調子が悪くなって低い波の底に沈んでしまうという事もある。この世の中の浮き沈みというものは人間がつくりだしたもの。我々が住んでいる世界の実態というものにはそう大きな波はない。極めて平静な、しかも頼りになるものがある。それが法と言うもののあり方である。だから、そういう点では、無我とか無心と言う言葉だけが、宗教の本質だとか仏教の本質だとかと言う簡単な理解の仕方は出来ない。この事が仏教を考える場合に、一つ非常に大切な問題としてあろうかと思う。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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