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正法眼蔵 有時 13

薬山惟厳禅師がある時、石頭希還禅師の指示で馬祖道一禅師に参じて質問した。

薬山惟厳禅師問う
私は様々の形における仏道修行、あるいは経典の説いている教えの概略と言うものはわかりました。しかし何が一体、達磨大師がインドからはるばる中国に来られた真意でありましょうか。

馬祖道一禅師答えて言う
ある時は人をして揚眉瞬目させ、ある時は人をして揚眉瞬目させない。ある時は人をして揚眉瞬目させることが肯定され、ある時は人をして揚眉瞬目させることが肯定されない。

馬祖道一禅師の教えを聞いて、薬山惟厳禅師は「なるほど、仏道とはそういうものか」という事が本当の意味でわかった。

そこで馬祖道一禅師に薬山惟厳禅申し上げる。
自分がかつて石頭希還禅師のもとで教えを受けておりました時は、蚊が鉄でできた牛の背中に乗って、その牛を刺して少しは牛を痛がらせてやろうと一所懸命やっていたに過ぎない。

薬山惟厳禅師と馬祖道一禅師の問答について道元禅師が注釈されます。
ここで馬祖道一禅師が言われている教えは、他にも沢山の仏道の指導者がいるけれども、そういう指導者と格段の力量の違いがある。ここで揚眉(眉を上げる)とか瞬目(目をしばたたく)と言っているけれども、そのことは別の言葉でいえば、山であり川であると理解することもできる。揚眉瞬目とは、我々が山を環境とし海を環境としているところの現実の生活の描写と考えても差し支えない。

そして、その世界において行動している主体が、肯定される(善)とか肯定されない(悪)とかと言われる対象になっているのであり、またそれは客観世界によって動かされるという関係でもある。そこに生きている人は、自分自身で一所懸命に行動しているし、周囲に引きずられて行動させられている。だから、善いとか悪いとかと言っても、悪いという事態が常に主体に対して何も行動させないと言う事ではないし、また主体に対して何の行動もさせない事が常に悪いとも限らない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師はどうして、こんな難しい言葉遣いをなさっておられるんですか。 私は聞いていたお弟子さんだって分からなかったんじゃないかと思いますけど。

先生
問題が二つあります。 まず一つは道元禅師がなぜこういう難しい事を言われたかと言いますと、我々の生きている世界そのものが難しいんです。 我々の生きているこの地球の上だけでも中々難しいんですよ。 言葉では説明できないものです、本来は。 それを言葉で説明しようとされたから、道元禅師の文章は非常に難しい内容を持っていると言う事が一つあると思います。 だからその点では我々が途轍もなく難しい世界に住んでいると言う事が、道元禅師の説明が難しいと言う事と同じ事を意味すると言う事が言えると思います。

言葉を使わないで把えようと思えば、何でもないんですよ。 つまり、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしていた状態と言うのはこの世の中の全てですよ。ただ我々は言葉の説明が好きなわけ。 「言葉で説明したらどうなりますか」と言う事が常に出て来るわけ。 で、言葉で説明しようとすると中々説明出来ないと言うのが、我々の住んでいる世界だと思います。 それが道元禅師が難しい事を繰り返し述べられたかと言う事の一つの原因になるわけです。 だから幸か不幸か我々はそういう難しい世界に生きているわけです。

言葉で説明しようと思わなければ、それは難しい事でも何でもない。 太陽は東から上がってくるし、朝になったら起きて朝ごはんを食べて、仕事に行くなり、本を読むなりと言う事で日常生活をやっていれば何の難しいことはない。ただ言葉で説明して、さて人生とは・・・という事で考えようとするとこれは中々難しい問題。 それで三千年の昔から色んな人が色んな説明をしているけれども、本当に当たった説明と言うものはほとんどないんですよ。 私なんかが仏道を勉強した関係からすると、釈尊の教えしか本当のことを説いていないと、こう言う事が言えると思います。
                              つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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