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正法眼蔵 有時 12

道元禅師の説示は続きます。

この宇宙は不動、不転と言うわけではなく常時変化している。 進歩がないわけではない。また退歩がないわけではない。 人間の智慧で決めつけて言い尽きるものではない。 無限の内容を具えているものではあるけれども、共通して言える事は、それはまさに経歴(瞬間瞬間に移り変わっていく)するのである。

この経歴とは、たとえば春にたとえる事が出来る。 春になると花が咲く、鳥が鳴く、魚が泳ぎだすと言うふうな春のさまざまの様子があるけれども、それらの一つ一つの現れという事が春という事実が出て来る場合の内容である。 こういう様々の内容が次々に現れてくるという事が経歴という言葉の意味である。春をつくる何かがあって、それによって春ができ上がる、春がつくられるというものではなくて、冬が自然に春に 移っていくという瞬間瞬間の移り変わりだというふうに学ぶべきである。

春とは何かといえば、春そのものだ。 春というものがそこにあるだけだ。春以外に何か神様のようなものがあって、春をもってきてくれて、春をつくり出してくれると言う事ではなくて、そこには春が独自の存在としてあるだけである。 瞬間、瞬間の移り変わりというものは、いつも春と言う事ではない。夏もあれば冬もあるが、今は春であるから春を舞台にして経歴という事が現実に行われているのである。 春が、人間の常識で考える様にいつもそこにあるという事ではなくて、たまたま今が春であるというに過ぎないと言う事実を、詳細に何回となく勉強してみるべきである。
 
この経歴という言葉を考えていく場合に、客観的な環境の他に、春というものが主体的に別にあるという考え方をし、春という主体が東に向かってたくさんの世界を通り抜けると考えたり、そういうことが百千劫という非常に長い時間の中で行われるというふうに考える事は、釈尊の説かれた教えの学び方からすれば、これだけが唯一の学び方ではない。

※西嶋先生解説  
「この事は突き詰めていえば、我々の人生は現在の瞬間しかないということ。 我々は、四十年、七十年、八十年と生きられるから、その長い時間の中での一コマ と言う考え方をする。 しかし人生と言うものはそう言うものではない。 つまり、いま生きている、いま生きているという現在の瞬間の連続でしかないと言う事 をここでは述べられている。」



          ―西嶋先生の話―

朝、駅で人の表情を見ても、朝から「疲れた、もうとてもやりきれない」と言う表情をしておる人がわりあい多いと感ずる。 早く寝るところをついつい遅くまで起きていて、休む機会が少なくなってきていると言う感じを受ける訳です。そんな事に関連して坐禅というものを考えて見ますと坐禅は一種の休息だと、こういう感じを持つ訳です。

こういう話をしますと、人は「いやあ、坐禅が休息になるなんてとんでもない、足は痛くてしょうがない、眠くはなるし、姿勢を崩す事は出来ないし、休息なんてもってのほかだ」と、こういうご意見もあろうかと思う訳ですが、坐蒲の上に重心をのせて、その上に背骨を立て、首筋の骨を立てて坐っているという事は、坐蒲の上に体の重心がのって、しかも頭の重さ、その他が重心の真上にあると言う事です。 ですから体重を保つ上においては非常に苦しさの少ない姿勢だと言えると思います。

しかも何も考えなくていいという時間を持ち得ると言う事が、人間にとっては非常に幸福な事なのではなかろうかと思います。 もちろん足が慣れるまでは痛いと言う事もありますし、長い時間坐っていると「まだ時間が来ない、まだ時間が来ない」と気がもめると言う事も勿論ある訳ですが、坐禅と言うものは慣れてくると「安らぎ」がある、とそういう事を感ずる訳です。 現代人がそういう面での安らぎの時間を持つ習慣がなくなっていると言う事、次から次へと自分の体を動かし、心を動かして刺激を追い求めていく、あるいは緊張を追い求めていくと言う事が続き過ぎるのではないか。

その途中で休むと言う時間が必要なのではないか。 「いや、酒を飲めば結構休めます」と言う事だけれども、酒を飲む事が本当に休むことに繋がるかどうか、あるいは一杯飲んで畳の上でゴロゴロ寝ている事が本当に休んだ事になるのかどうか、こういう問題があろうかと思う訳です。 そういう点では、坐禅というものを「安らぎ」と言う面から見る事が出来る。 したがって、「正法眼蔵」弁道話の巻で、道元禅師が「坐禅は安楽の法門である」と言われた事の意味が単なる誇張ではなしに、あるいは文学的な表現ではなしに、心底安らかで楽しい修行だと、こういうふうに言えるのではないかという気がする訳です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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