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正法眼蔵 有時 11

道元禅師の説示に入る前に西嶋先生の話です。

――この前々からやっておる「有時」の巻と言うのは「有」と言うのは存在ということ、我々の世界ということ。その現実の世界における時間、それが「有時」。だから「有時」と言うのは現実の時間ということ、存在に関連した時間と言う意味です。道元禅師がなぜ「有時」ということを言われたかと言うと、我々は時間というものを、過去から現在、未来と、細い棒のようにず-っとつながっていると思いがち。常識的にはそういう捉え方をするわけ。ところが日常生活を真剣に生きていってみると、時間というものは現在しかない。いま何をやるか、いま何をやるかという、現在の瞬間、瞬間が本当の意味の時間。そういう本当の時間と言うものを道元禅師は「有時」という言葉で言われた。――

道元禅師の説示に入ります。
日常生活において煩わしいことはいくらでもあるけれども、その日常生活のあらゆる瞬間瞬間がいずれも時間である。現に右に左に出現して我々を守護してくれると言われている神々も、人間が一所懸命現在の瞬間を生き抜いているからこそ、出現するのである。神々や天使が出るとか出ないとかだけではなしに、我々の人生はある時には海を渡って航海している、ある時には陸地を旅行して歩くと言う様々の人生があるわけだけれども、自分自身が一所懸命やっていればこそ、時間として現れて来るのである、人生として現れてくるのである。

我々の世界というものは、目に見える世界もあれば目に見えていない世界もある。いずれの場合にも、その中において時間という世界に生きている様々な生き物も、様々な人々も自分自身が一所懸命人生を生き抜いていればこそ、それらのものが現実の時間における存在として発現するのである。これこそベストを尽くしての経歴である。自分自身が一所懸命やらないならば、たった一つの世界、たった一つのものといえども存在することがなく、経歴することがないと学ぶべきである。経歴と言う言葉は瞬間、瞬間、いまの瞬間をと言う生き方、変化の仕方であって、風が東から吹いて西の方に去っていった、雨が東から降って西の方に去って行ったと言う移り変わるものとして経歴の内容を考えてはならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
人間は感情の動物なんていわれてまして、とかく興奮しがちなんですが・・・。 俗に喜怒哀楽を出さなければ人間も一人前だと言う評価もあります。反面、喜怒哀楽を表現した方が人間的だと言う考え方もあって、それは 仏道の上から見るとどの様に評価されるんでしょうか。

先生
文化の中における価値観の違いがハッキリあると思います。 欧米の思想は感情的である事が人間的なんだ、だから感情的に色々な動作 を現すと言う事を家庭教育でも受けるようです。 そういった文化価値を持った民族と、それから仏教思想の様に感情的になる事は正しい状態ではない、だから出来るだけ避けるべきだと言う考え方とは価値観が違っております。

私などは、まあ長いか長くないか分からないけれども、六十年ぐらい生きてきた経験からすると、感情的になると言う事は実に弱さと繋がっている事があると思います。 感情的にならないと言う事は、世間から見ると「あの人は冷たい」と言う見方をされるわけですが、感情的になって興奮した態度をとることが人間の幸福 に繋がるかと言うと、必ずしも感情的になった時にいい結果が出るかと言うとそうではない。
    
その点で、欧米の文化と仏教的な哲学との間に、明らかに価値観の違いがあるけれども、どちらが信頼するに足りるかという事は、大いに検討してみなけれ ばならない問題だと思います。


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コメント
532:せっせせっせ by 正田寿男 on 2016/03/13 at 07:46:22

「せっせせっせ」
いいですね。
余計な気持ちや力が入らずに、今目の前のことに集中出来る言葉。
「せっせせっせ」
どんな時も、どんな場面でも
「せっせせっせ」
興奮しそうになった時も、怒りそうになった時にも「せっせせっせ」で、また目の前の事に戻って集中させてくる。

「せっせせっせ」で「有時」を励んで行こうと思います。

533:Re: せっせせっせ by 幽村芳春 on 2016/03/13 at 16:09:48

正田さんコメントとありがとうございます。

道元禅師は「坐禅さえすればもう一切の問題解決」と言われました。
私は坐禅をするようになってから、日常生活で何をしなければならないかという事は体が教えてくれますので、余分なことは考えず目の前の今やるべきことを「せっせせっせ」とやれるようになり、時間を無駄に過ごすことがなくなったと感じています。
正田さんは坐禅をやられる様になって、日常生活はどうですか。

西嶋先生はよく「せっせせっせ」と言う言葉を使っていました。いいですね。「せっせせっせ」で「有時」を励んでいきましょう。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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