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正法眼蔵 有時 10

薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

うかうかと時間を過ごしてしまうその前後というものも、すべて現実の時間の実際のあり方に他ならない。またこの世の中の当然あるべき姿に安住して、自分の実人生をしっかりと活き活きと生きていく境地にあるということも時間においてである。人生というものは、抽象的に存在しないと生半可に考える事も出来ないし、また絶対の実在だと決めつける事も出来ない。一般に時間はただただ過ぎ去るばかりだというふうに考えて、まだ到来しないというふうには理解しない。その理解も時間においてなされるのではあるが、他人の考え方に従って改めるという機会が中々ないものである。

時間というものを去ったり来たりする性質のものだと認識する人はいるが、人生そのものは、宇宙秩序の中に坐を占めた現在という瞬間瞬間の時間でしかないという徹底した理解をする事の出来る人が中々いない。難門を全部通り抜けて、人生のすべてがわかったと言う事には到達しがたい。この宇宙の実在の中に自分のいるべき位置をはっきりと把み得たとしても「もうすでに一切の言い難き何物かが自分のものになった」と言い切れる状態で、それを口に出せる人が果たして何人おろう。

また「もうすでに一切の言い難き何物かが自分のものになった」と言い切ることが久しきにわたっている人の場合でも、まだ本来の面目が目の前に出てくる事を手探りで求めていないような人は一人もいない。日常の明け暮れの生活と言うものを実態的に捉えるならば、真実に到達したとか、幸福の境地に入ったとかと言ってみても、凡夫におけると同じように、日常生活において瞬間瞬間に現れてくるところの明け暮れでしかない。

※西嶋先生解説
――この辺は時間と言うものを非常に深く捉えておられる。あるいは哲学的によく人生と言うものを見ておられる。最初に申した様に、今日の世界における一番進んだ思想と言うものと今日述べた様な時間の捉え方とは密接な関係がある。だから七、八百年前の道元禅師がいかに天才であったとはいえよくこれだけの思索を作り上げたものだということで、それは驚異に値する。

そしてそれが何から生まれたかと言うと、坐禅から生まれた。だから道元禅師はこの時間に関する考え方について、釈尊の思想と一分一厘の違いもないということを確信しておられた。なぜそういうことを確信しておられたかと言うと、釈尊の教えそのものも坐禅から生まれた。坐禅をしておれば理屈なんかもう全部飛び越えて、今日書かれておった様な事が、言葉ではなしに、思想ではなしに、実態として体にしみ込んでくる。そのことが仏道。だからそういう点では、道元禅師が「坐禅さえすればもう一切の問題解決」と言われたのは、まさにそういう事態と関係があるわけです。

仏道と言うのは理屈をこねておったら難しくてわかるものじゃない。坐禅をしておればすぐわかる。体にしみついちゃう。仏道と言うものが体にしみついてしまう。だから坐禅をするということは仏道を体にしみ込ませることに他ならない。そして体に仏道がしみ込んでしまえば何の心配もない。日常生活で何をしなきゃならんかということは体が教えてくれる。せっせせっせと目先の事をやって、愉快な気持ちで毎日を送っておれば、最高の人生を送れるわけです。最高の人生といっても、一日一日の積み上げ、瞬間瞬間の積み上げ以外に人生と言うものはあり得ない。そういうことにもなるわけです。だからこの「有時」の巻と言うのは、そういう人生哲学を含めて、時間と言うものを考えておられるということになろうかと思います。――


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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