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正法眼蔵 有時 9

薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)で時間を表すことがある。午とか未とかと言う時刻を実在させるところのものも、法(宇宙秩序)の中に厳然と座を占めた恁麼((言い難き何物か)の昇降であり上下である。未の刻になったり、午の刻になったりということが繰り返し繰り返し行われているに過ぎない。子の時刻も時間である。寅の時刻も時間である。人々も生き物も時間において存在する。仏(真実を得た人)もやはり時間において存在する。

そしてこの時間が、憤怒の形相ものすごく怒り狂った状態でこの世の中の一切を体験したり、釈尊と同じ様に落ち着いた状態でこの世の中の一切を体験したりする。このありのままの世界全体をそのまま素直に受け取る事が、世界全体を究め尽くすという事の意味である。つまり、机を究め尽くす、柱を究め尽くすということは、机をそのまま素直にありのままに見ること、柱を柱として素直にありのままに見ることが、究め尽くすということに他ならない。

釈尊を真似て坐禅をし釈尊と同じ様な身心の状態になることを、発心(真実を得たいという気持ちを起こす)・修行(実際に修行をする)・菩提(真実に到達する)・涅槃(幸福な境涯に立ち到る)と言うそれぞれの段階で実現する事、そうした状態もこの娑婆世界における存在において行われるのであり、また時間において行われるのである。それは一切の時間こそ一切の存在に他ならないと徹見することであり、それ以外に余分の実在はない。余分な実在はあくまでも余分な実在であって、その様な実在はあり得ないのであるから、究め尽くすことが半分にしか達していない現実の時間は、半分の存在なり時間なりを究め尽くしたことに他ならない。うかうかと時間を過ごしてしまうという状況も人生における疑いようのない実在である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
成道のお釈迦様のお姿を私が拝見した時、実にやつれたお姿だったんです。ところが涅槃図では八十才で亡くなったんだから「さぞや」と思うのに若いきれいな姿ですね。あれはやっぱり阿弥陀如来様みたいに美化したんでございますか。

先生
まあ、ああいう絵と言うのは人間がつくったものですから、たまたま人々の信仰がそういう姿を描いたというだけのものでね。その姿がどうこうということには決定的な意味はないと思いますがね。だから美化したということもいえるかもしれませんし、事実そういうことであったということかもしれませんしね。絵とか仏像とかと言うのはやっぱり人間がつくったものですから。だからお釈迦さん自身がどうだったかと言うことよりも、人間がどう解釈し、どう理解したかということが基礎になって、ああいう姿が生まれて来るということだと思いますね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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