正法眼蔵 有時 8
薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。
時間には経歴(過ぎ去る)という性質がある。ただその過ぎ去り方とは、昨日から明日にという普通の常識的な経歴の仕方もあると同時に、今日から昨日に時間が移るということもある。自由自在に過去から未来に、未来から過去にという往復の時間の相互関係がある。時間がそのままつまらない理屈を超越して現に今日があり、明日があると言う事である。元来経歴は時間の持つ性質であるから、過去、現在という時間というものが縦に列をなして並んでいると言う事ではない。しかも青原禅師も、黄檗禅師も、馬祖禅師も、石頭禅師もまさに時間において存在した。
この様に自分自身もそれから周囲の世界も、一切が時間においてあるのであるから、修行も体験もやはり時間においてである。泥にまみれ水に浸かり苦心惨憺して人生を生き抜いていく事もやはり同じように時間においてである。いま凡夫は仏教的な時間の見方をしないで、それぞれ常識的な時間の見方をしているけれども、直接・間接の原因もそれぞれ自分の考え方を持って、こうだ、ああだと理解しているけれども、実態そのものはそういう考え方と同じではない。基本的な実在(法)というものがあって、そういう法の中に凡夫の人々が置かれているに過ぎない。
この我々が送っている人生における時間なり存在なりと言うものが本当の実在ではないと一般的に考えるから、釈尊と我々とは全く同じであるにもかかわらず、自分は釈尊と違うと思う。しかしこの自分自身を釈尊と同じ状態ではないと言って卑下することも、また現実の時間の瞬間瞬間においてであり、まだ仏道とは何かということを体験していない人のその場その場における見方に他ならない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師のお考えでは、善根とか善業を行う限り、ずっと将来善い果報が続くと言う様な、因果応報の考え方がありますか。
先生
そういう考え方はありますね。
質問
必ずいい報いがあると。ところが善いことをやっても無頼につながると言う様なものが出てきますよね。それが仏道のおもしろいところだという説明もよく聞くわけなんですが、大悪人、それが後になってある意味で幸せな一生を送ると言う様な事はどう考えたらいいんですか。
先生
道元禅師の思想、したがって仏教の思想では、因果関係を信ずる、原因・結果の関係を信ずるというのは、これは非常にはっきりした一つの原則ですよね。だから「造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがわざるなり」と言う言葉がある.善をおさめている者は上がり、悪をなすものは堕ちていく、その原因・結果の関係は千分の一、百分の一という僅かの食い違いもない。これは基本的な仏教思想です。
普通世間では、善いことをしても必ずしもいい結果が得られるかどうかわからない。悪いことをしても結構うまくやっている人間はたくさんいる。だから善悪の因果関係と言うものはないんだという考え方が一般的ですよね。今日は大体そうですよね。原因・結果についての信仰と言うものはない。因果関係についての信仰はない。だから悪いことをしても人に見つからなきゃそれまでだというのが大体の考え方。ただ道元禅師の見方、あるいは仏教の見方からすれば、それは読みが浅いということ。長い目で見れば、「造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがわざるなり」ということなんだと、これが仏教信仰の一つの確信です
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時間には経歴(過ぎ去る)という性質がある。ただその過ぎ去り方とは、昨日から明日にという普通の常識的な経歴の仕方もあると同時に、今日から昨日に時間が移るということもある。自由自在に過去から未来に、未来から過去にという往復の時間の相互関係がある。時間がそのままつまらない理屈を超越して現に今日があり、明日があると言う事である。元来経歴は時間の持つ性質であるから、過去、現在という時間というものが縦に列をなして並んでいると言う事ではない。しかも青原禅師も、黄檗禅師も、馬祖禅師も、石頭禅師もまさに時間において存在した。
この様に自分自身もそれから周囲の世界も、一切が時間においてあるのであるから、修行も体験もやはり時間においてである。泥にまみれ水に浸かり苦心惨憺して人生を生き抜いていく事もやはり同じように時間においてである。いま凡夫は仏教的な時間の見方をしないで、それぞれ常識的な時間の見方をしているけれども、直接・間接の原因もそれぞれ自分の考え方を持って、こうだ、ああだと理解しているけれども、実態そのものはそういう考え方と同じではない。基本的な実在(法)というものがあって、そういう法の中に凡夫の人々が置かれているに過ぎない。
この我々が送っている人生における時間なり存在なりと言うものが本当の実在ではないと一般的に考えるから、釈尊と我々とは全く同じであるにもかかわらず、自分は釈尊と違うと思う。しかしこの自分自身を釈尊と同じ状態ではないと言って卑下することも、また現実の時間の瞬間瞬間においてであり、まだ仏道とは何かということを体験していない人のその場その場における見方に他ならない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師のお考えでは、善根とか善業を行う限り、ずっと将来善い果報が続くと言う様な、因果応報の考え方がありますか。
先生
そういう考え方はありますね。
質問
必ずいい報いがあると。ところが善いことをやっても無頼につながると言う様なものが出てきますよね。それが仏道のおもしろいところだという説明もよく聞くわけなんですが、大悪人、それが後になってある意味で幸せな一生を送ると言う様な事はどう考えたらいいんですか。
先生
道元禅師の思想、したがって仏教の思想では、因果関係を信ずる、原因・結果の関係を信ずるというのは、これは非常にはっきりした一つの原則ですよね。だから「造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがわざるなり」と言う言葉がある.善をおさめている者は上がり、悪をなすものは堕ちていく、その原因・結果の関係は千分の一、百分の一という僅かの食い違いもない。これは基本的な仏教思想です。
普通世間では、善いことをしても必ずしもいい結果が得られるかどうかわからない。悪いことをしても結構うまくやっている人間はたくさんいる。だから善悪の因果関係と言うものはないんだという考え方が一般的ですよね。今日は大体そうですよね。原因・結果についての信仰と言うものはない。因果関係についての信仰はない。だから悪いことをしても人に見つからなきゃそれまでだというのが大体の考え方。ただ道元禅師の見方、あるいは仏教の見方からすれば、それは読みが浅いということ。長い目で見れば、「造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがわざるなり」ということなんだと、これが仏教信仰の一つの確信です
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