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正法眼蔵 有時 7

薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

憤怒の形相ものすごく怒り狂った時間と言えども、それもやはり自分自身の実際の人生に他ならない。人様の事だと考えがちであるけれども、やはり自分自身の事であり、現在の瞬間でしかあり得ない。坐禅をして釈尊と同じような境地で、きわめて落ち着いた静かな境地もあり得る。そしてどうも自分らしくないと人様の事の様に感じるかもしれないが、やぱりそれも自分自身の実際の人生に他ならない。

この事は単に人間だけの事ではなく、庭先に植わっている松も竹も、そういう個々の事物も時間において生え生きている。ここで時間というものを考えてみると、時間は移り変わるものと考えて、時間だけが過ぎていくという考え方では、時間の本質が捉えにくくなる。時間が過ぎていくと言う考え方ももちろん間違いではないけれども、そういう考え方だけで時間は過ぎていくものだと眺めていたのでは、時間そのものの理解が不十分になる。時間は過ぎ去るものだとばかり考えると、その間にどうしても隙間ができる。

本当の意味で現実の時間を経験したり聞いたりしていない人々は、時間は過ぎ去るものだと言うふうに常識的な時間に対する理解しか出来ないためである。結論的に言うならば、時間は確かにずっと続いているけれども、それと同時に瞬間瞬間として、現実の時間として、泣いたり、わめいたり、腹を立てたり、落ち着いたりと言う、瞬間瞬間が我々の人生にあるだけである。この様な具体的な時間であるから、それは常に自分というものと関連して自分の時間としてある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「弁道話」の巻の中に、「世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり」と言う言葉がございますね。あれは実存と仏教と言う面から見れば、仏教も世間一般も仕事もそう違ったことはないと言っているわけですね。そうしますと仏教徒になるということはどういうことですか

先生
こういうことなんですよね。普通、世間並の基準と、それからそれを乗り越えた仏道と言う宗教的な基準とが二つあって、それでその両方が矛盾するんじゃないかと言う考え方があるわけですよね。ところが自分自身が仏道と言うものに身を置いて、一所懸命に仏道を生きていくという立場から見れば、そこに一人の人間が一所懸命に生きているという事実しかない。そういう世界では世法も仏法もありはしない。頭の中で考えればこそ世法があり仏法があるんであって、日常生活を具体的に一所懸命に生きていこうとするならば、世間のル-ルもないし、仏道のル-ルもない。ただ一人の個人が一所懸命自分の良心に従って生きていく世界があるだけだという意味です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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