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正法眼蔵 有時 6

薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

山を上ったり河を渡ったりしている時に自分がある。自分というものは、時間と切り離せないところで生きているという事に他ならない。現に自分が一所懸命日常生活を生きているのであるから、その日常生活は時間と切り離してはとうてい考えられない。仮に時間と言うものが現れたり去ったりしないものと断定するならば、いま現に山を上っている現在の瞬間と言うものが時間の実態である。仮に時間というものが現れたり去ったりする姿を持っているという立場から考えるならば、時間としての現在の瞬間と言うものが自分自身に具わっており、これが具体的な時間である。

この様な点からすれば、山を上ったり、河を渡ったりした後で、目的地に着いて立派な建物の中に入っている瞬間と言うものも、山を上っている時、河を渡っている時に含まれている。また腹を立て怒っていた時も、過ぎ去った事ではあるけれども時間において行われた事であり、坐禅によって自分の身心を調節して落ち着いた心境の中にいる事も、現在における時間においてそれが行われているという事に他ならない。

しかしながら、その山に上った時の状況は、自分が山に上ると言う事と離れて、抽象的にはたから傍観者として眺めているのではなく、実際に自分の足を踏みしめて山の中に分け入って一所懸命歩く事によって、山登りは初めて可能になる。いつでも自分自身を山登りと言う舞台の中に置かなければならない。

※西嶋先生解説
最近「あんたが主役」と言うキャッチフレ-ズがよく使われておるようだけれども、これはそういう言葉が使われるようになったから人間が主役になったとかならんとかということじゃなくて、人間と言うのは「オギャ-」と生まれた時から人生の主役。本人がそれぞれ自分のドラマと言うものをどう演技するかということで主役として動いている。普通そのことをわりあい意識しない。人様がやってくれると思っておる。自分はまあ三枚目だから後から楽についていこうとみんな思っている。

ところが人生はそうはいかない。各人の人生の主役はだれかと言えば自分自身。だからそういう点では、自分自身が主役であるということに気付くということが人生と言うものを理解する上に置いて非常に大切な事。「俺がやらなければ誰がやる」と言う様な、誰もがそういう責任を持っているわけです。自分自身がやらなければ何も始まらないというのがこの世の中の実際のあり方。人生そのものの姿。



          ―西嶋先生の話―
                       --つづき

それからまた物事を考えていく上おいては、四つの考え方を重ね合わせて考えて行けという、四諦論というものをいわれた。これも単純な教えではない。よく赤だとか青だとか様々な色に見えるものを玉虫色と言う。釈尊の教えと言うのは玉虫色の教え。単純な一色の教ではない。だから見方によっては様々の色に見える。なぜそういう考え方が必要かと言うと、現実そのものが玉虫色。現実そのものがそう単純なものではない。だから単純でない世界を解き解そういうのだから、単純な教えでは間に合わない。そういう点では非常に複雑な内容を具えたのが仏道ということにもなろうかと思う。

そういうものを突き詰めていけばどういうことになるかと言うと、先ほど我々が四十五分間坐っておった時の状態。足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしている時と言うのは、鬼が出ようが蛇が出ようがといっこうに心配の要らない体の状態。心の状態。鬼が出てきても、自分の見方にしてしまう、蛇が出てきても蛇を自分の栄養にしてしまうという風な生き方が仏道。

だから仏道と言うのは何かといえば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っておる、その時の状態そのものが仏道で、それ以外に仏道はないという風に見て差し支えない。そういう面からすると、仏道と言うのは直接的で簡単な教え。足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っておれば、一切が具わるというのが仏道、そういうことにもなろうかと思う。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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