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正法眼蔵 有時 5

薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

いま自分が何をしているか、いま自分が何をしているかという考え方が基礎になって、この世の中の一切のものがある。この世の中の様々のものが時間と関連してあるのだし、個々の物が全て時間との関係でこの世の中にあるということを学んでみる必要がある。この様な形で時間と関連して人生を眺めていくということが、仏道修行の一番最初の出発点である。究極の真実に到達した境地においては、個々の事物がそのままそっくり素直に見え、この世の中の姿をある場合には理解する場合もあれば理解しない場合もあり、この世の中にある個々の事物を理解する場合もあれば理解しない場合もある。

時間は、過去があって、現在があって、未来があって長い棒の様につながっているものではなくて、具体的な現実の時間は、いま、いま、いまということで、いまの瞬間の連続でしかない。したがって一切のもの、一切の現象も時間においてあるということに他ならない。そしていま、いま、いまと言う時間の中に一切の存在、一切の世界があるということに他ならない。今の時間の他に何か物があるか、世界があるかということをよく考えてみる必要がある。

ところが釈尊の教えをまだ十分に勉強していない凡夫の時期にありがちな考え方は、この有時(あるとき)と言う言葉を聞いた時にどういう理解をするかと言うと、「あるときは腹を立てて暴れ回った。ある時は釈尊の様に落ち着いた心境になった。たとえば河を過ぎ、山を過ぎたようなものである」と。その河や山は現に実在するであろうけれども、現在では自分はそれを通り過ぎてしまって、今では素晴らしく立派な建物の中におり、河とか山とかと言う過去における環境と自分とは、天と地と程もの隔たりがあると考える。この様な捉え方もあり得るけれども、これだけが真実の考え方ではない。



          ―西嶋先生の話―

仏道と言うのは、ある点から見れば一つの考え方を信じて生きるということでありますから、その点では何らかの考え方と言うものにつながっておるわけです。ただ仏道と言うのは一方的な考え方ではないということ。これが大事な事で、世間にはいろいろと一方的な考え方と言うものが沢山ある。それで沢山の偉い人がおって、「この考え方が絶対だ」と言う様な事で、いろんな形で講義したり本を書いたりということが行われておる。

しかし仏道は一方的な考え方では危険だということを説かれた。釈尊は一方的な考え方では危険だということを説かれた。そのことはどういうことかと言うと、我々が生きている現実の世界と言うのは、そう一方的な単純なものではない。だからそういう単純でないものを使いこなして我々は生きていくわけだから、一方的な単純な考え方で生きようとすると、むしろ危険が伴う。

一方的な単純な考え方、たとえば我々は食事を毎日する。そうすると栄養をとるということは非常に大切な事だという考え方がある。ところがいつもそうかと言うと、必らずしもそうではない。栄養が多すぎて困っている病気と言うのがある。そういう人にとっては栄養の高いものを取るということは毒を自分の体に入れるようなもの。だから栄養を取るということがいつでも人間にとって、体の健康につながるということにはならない。ところが世間ではよくそういう一方的な考えで押そうとする。おいしいものを食べれば何でもいいんだ。肉を食べる、魚を食べるということで栄養価の高いものをとる事が健康を維持する方法だ、と考えるならばそれは間違い。

そういうことがあると同時に、今度は栄養失調で痩せ衰えている時に、野菜がいいんだ、玄米がいいんだ、ということで、無理して本当に体が必要としているものをとらないでいれば、これも健康にはよくない。そうすると、我々の住んでいる世界と言うのは決して一筋縄ではいかない。単純な一面的な教えだけで押すことのできないのが我々の生きている世界。そういう現実に適応する教えを釈尊は説かれた。だから釈尊の教えと言うのは、どの教えをとってみても、中道と言われる。右も間違い、左も間違い、極端な状態と言うものは誤りだ。ちょうど真ん中がいつでもいいと言う事を言われる。これもなかなか単純な教えではない。
            つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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