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正法眼蔵 有時 3

「有時」の巻、本文に入ります。

古仏(薬山惟儼禅師)が言われた。
ある時はきわめて高い山の頂に立ち、ある時は極めて深い海の底を潜行する。ある時は不動明王の様に形相ものすごく怒り、ある時は釈尊の様に心身共に至福の境涯に留まる。またある時は行脚につかう杖や仏教儀式につかう払子となり、ある時は戸外に立つ柱や灯篭となり、ある時はきわめて平凡な普通の人であり、ある時は大地であり空間である。

道元禅師が薬山惟儼禅師の言葉について注釈されます。
我々の日常生活における具体的な時間は、抽象的に存在するものではない。何らかの事が行われている、何らかのものがあるという事実と関連してのみ時間はある。この世の中の一切のものは、すべて時間の中においてあるのであり、時間と関係ない存在は何もない。釈尊の一生も時間においてであり、時間においてであればこそ、時間に特有の素晴らしさや輝きが具わるのである。

この時間は、朝の零時から、十二時間たつとお昼になってご飯を食べて、また十二時間たつと真夜中になるという、その二十四時間と同じだと言うふうに学んでよい。憤怒の形相で拳を挙げたり物を投げたりして暴れ回る状態も時間の中で行われる事である。二十四時間が長いとか短いとかと言ってみても、これをはかる絶対的な基準はないが、人間が時間の区切りとして一日を二十四時間としたまでである。朝太陽が東の空に出て、それが十何時間か地上を照らして、時間がたつと西の方に沈んで行って夜になる。その一区切りを二十四時間と言っているに過ぎない。

時間の流れは毎日が同じ様に繰り返されているから、人は「時間とは一体何か」という疑問を持ってみようとしない。しかし疑問を持たないからと言って、よくわかっているかどうかと言うとよくわかっていない。人間が疑問を持つ事柄は様々雑多で、実に千差万別であるけれども、時間の移り変わりによって、様々の疑問とするところも変わっていくし、前に考えた疑問と時間がたってから持った疑問と必ずしも同じではない。疑問の内容は様々であるけれども、たった一つ共通して言えることは、疑問を持つという行為が時間において行われるということだけはいつの場合でも例外がない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
素朴な質問ですが、先生がなぜ禅宗を研究されて選ばれたかということ。それからこの混沌とした日本の社会でこの教義をどういう意図をもって主張されるのか、その辺のところを教えていただきたいと思うのですが。

先生
私がなぜ坐禅と言うものを中心にして勉強してきたかと言うと、疑いようがなかったということ。坐禅と言うのは、実際にやってみると、体の実感、心の実感として…本を読んでいろんな有り難い教えはあるけれども、常に「本当かな」と言う感じはある。これが正しいんだ、あれが正しいんだと言われてみても、「ほんとかなあ」と言う気持ちがどの教えにもつきまとう。ただ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておる瞬間と言うもの、これは疑いようがない。だからそういう疑いようのないものを基準にしてもう一度教えと言うものを立て直すということが不可欠だ、それが仏道と言う考え方。

今日の時代と言うのは、たいていの人がたいへん疑り深い時代。だからたいていのものは疑われるんだし、また疑うべきなんです。疑わなければ本当のものは出てこない。ただ坐禅と言うのは疑いようがなかった。そういうことが一つの基準だと思いますね。それから今日の時代ということになりますけれども、今日の時代と言うのは、西洋文明を一所懸命に勉強してきた時代の一こまということになる。明治維新以来、日本は非常に優秀だから、諸外国に追いつこうということで一所懸命西洋文明を勉強して来た。そのことは非常に日本の国のためにはよかったわけであるけれども、西洋自身が西洋文明の基礎になっている思想で悩んでいる今日、何かもう少しまともな解決策はないかと言う問題が世界的に出始めている。

ところが日本には、明治維新以前には長く仏教と言うものが社会を支配して我々を指導してきた。だからそういうものをもう一度掘り起こして今日の時代に生かすならば、日本の国も今とは多少違った国になるであろうし、そのことを世界の国にも教えてやることによって世界の国もやはり今持っている悩みから救われるだろうと、そういうことがいま仏教を勉強しておるということの基本的な考え方だと思います。

質問
そういう考え方は、他の宗教よりも禅宗において非常に顕著に現れているんでしょうか。

先生
禅宗とか何とかいうけれども、仏教と言うのは一つしかないんですよ。だからそういう点では、仏教が何か、仏道とは何かということを詰めるということに尽きると思う。仏教と言うのは、単なる理屈だけではなしに実体があるわけですよね。実体をつかむためには坐禅と言う修行法がある。だから坐禅と言うのは禅宗だけの特有物ではなしに、仏道と言うものをつかもうとすれば坐禅をせざるを得ない。そういうことだと思いますね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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