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正法眼蔵 有時 2

「有時の巻」に入る前に、西嶋先生の話は続きます。

道元禅師が生きられたのは、七、八百年前。七、八百年前に今日の世界における最高の思想と言うものがすでに説かれておったということ、これは非常に大きな驚異的な事実ということが言えると同時に、単に七、八百年前でなしに、二千四、五百年前にインドに生きられた釈尊ご自身が、今日の最先端の先を行く思想を述べられておられたということ、このこともまた偉大な事実。

仏教と言う思想は聖徳大子の十七条の憲法の中では、「万国の極宗」と言われていて、何処の国の思想よりも優れているという評価を古来持ってきたわけであるけれども、その原因と言うのは、釈尊の教えと言うものが持っている哲学的な意味の深さ高さにあるわけであります。そういう点からすると、この「有時」の巻と言うものも中々哲学的で、難しい巻ではあるけれども、こういう問題を理論的に詰めていくことによって初めて、我々がどういう意味で人生を生きておるかということがわかってくるわけであります。

なぜ難しいかと言うと、一つには、普段我々が常識的に頭の中においておる考え方とちょっと向きが違う。ほんのちょっと向きが違うわけだけれども向きが違う。だからそういう向きで物事を見る癖がつかないと、普段の常識的な考え方で問題を考えようとすると、ちょっと考え方の方向がずれておるためになかなか難しいということ。逆に坐禅というものををやって普段の日常生活で、我々の頭を捉えておる考え方から脱け出すと、「正法眼蔵」に説かれた教えと言うものが現実の、日常生活の問題としてわかりやすくなる。

だから我々がなぜ坐禅をするかと言えば、普段悩まされておる色んな常識的な考え方を卒業して、本当の意味で仏道と一体になるということが坐禅の狙い。だから坐禅をやることによって従来の考え方とは違う、本当の意味で人生と言うものを捉えるような考え方に移っていくということがあるわけです。
                ―1978年12月28日提唱―    


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コメント
528:「あるとき」 by 正田寿男 on 2016/03/03 at 19:07:56

「あるとき」
「本当の我々の人生における時間」
「有時」
「我々がどういう意味で人生を生きておるかということがわかってくる」

またまたワクワクです。
楽しみにしています。

529:Re: 「あるとき」 by 幽村芳春 on 2016/03/04 at 10:07:01

正田さんコメントいつもありがとうございます。

「有時」の巻に入りました。難しいです。
西嶋先生の解説がなかったら、私には「正法眼蔵」は絶対読めなかったと思います。
先生の講義を聞いて「正法眼蔵」を一緒に学んでいきましょう。


プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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