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正法眼蔵 有時 1

「有時」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この「有事」の巻もなかなか難しい巻であります。「有時」と言うのはどういうことかと言うと、薬山惟儼禅師の言葉がこの巻の一番最初に出てくるわけでありますが、「あるとき」と言うのが本来の意味。「有時」と言うのは「あるとき」。「あるとき」とはどういうことかと言うと、我々の日常生活を考えてみれば何の造作もないことで、あるときは顔を洗っていたとか、あるときはご飯を食べていたとか、あるときは昼寝をしていたとか、あるときは赤ちょうちんで一杯やっていたとか、色々な場面があって、その色々な場面を「あるとき」と言う。

我々の人生と言うのは何かというと、こういう「あるとき」と言う時間の連続。普通、時間と言うものを西洋哲学的に考えると、過去があって、現在があって、未来があってということで、一本の線の様に長い時間と言うものがあって、そのうちの一部分が我々の人生という考え方をする場合が多い。ただそういう考え方だと、時間と言うものが抽象的に理解はされるけれども、本当の我々の人生における時間と言うものとは別になってしまう。

ところが我々の人生と言うものは何かというと、あるときは顔を洗っていた、あるときはご飯を食べていたと言う様なわけで、「あるときは」「あるときは」と言う現実の時間の連続。それ以外に我々の人生はない。そうすると、我々の人生と言うものは、「あるとき」「あるとき」と言う具体的な時間の繋がりでしかないという捉え方があるわけであります。そのことを道元禅師は「有時」と言う言葉で表現されたわけです。

この考え方と言うのは西洋にもないことはない。特に20世紀になると西洋の思想家がこういう考え方を持ち始めた。今日、世界の哲学の主流を占める思想と言うのはどういう思想かと言うと実存主義と言う哲学が今日の世界における哲学の主流をなしている。どういう哲学者がいるかと言うと、19世紀の後半に出たニ-チェと言うドイツの哲学者がいる。これなども単に19世紀に盛んであった唯物論がいいか唯心論がいいかと言う風な二つに分かれた考え方のどちらにも偏らない、その真ん中に正しいものがあるのではないかということで、実際に何をやるかが大事だということを哲学の中に取り込んできた。

それからニ-チェの他にも、キルケゴ-ル、ハイデッカ-、ヤスペレスと言う哲学者――これはドイツの哲学者、それからサルトルと言う思想家。サルトルもやはりこの実存主義の哲学者。つまり人間が何を考えるか、何を感ずるかということではなしに、人間が何をするかが非常に大切だということが哲学の中心の課題になってきつつある。この「何をするか」ということは、どういう風に人間が生活しておるかと言う意味で、実在と言うものを問題にして、その実在と言うものを中心にして我々の人生を考えていこうとするのが実存主義。

だからそういう点では、我々の現在住んでおる20世紀の思想と言うものは、道元禅師が「正法眼蔵」の中で説かれたこの「有時」の巻と言うものの思想と非常に近い。ただ道元禅師は、この「有時」の巻の思想と言うものも、自分自身が初めて考え出した思想だという風にはお考えになっておられない。そうして道元禅師の思想は全部釈尊の教えと言うものを一分一厘の違いもなく鎌倉時代の言葉で表現したものだというのが道元禅師のお考え「糸毫を添えず、一塵を破ること莫」と言う風に言っておられる「一毫」と言うのは千分の一、「一糸」と言うのは万分の一、千分の一、万分の一の違いも釈尊の教えに背いていないというのが道元禅師の確信。 つづく--   
                      ―1978年12月28日提唱―                   


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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