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正法眼蔵 諸悪莫作 24

白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

白楽天は窠道林禅師の真実を教える声が、雷よりも大きな音をさせていることを耳にする事ができず、その鳥窠道林禅師の言葉が本当の意味を持っていることに気付かず、鳥窠道林禅師の言葉では不十分だということを言いたいがために、「そんな事なら、三歳の子供にも言う事ができますね」と言った。これは子供が釈尊の様に真実を説くのを聞かず、鳥窠林道禅師の真実の説法も聞かずをうかうかと気づかずに通り過ぎてしまったのである。

そこで白楽天がまだ十分物事を理解していないのを気の毒に思って、鳥窠道林禅師がさらに言ったのである。「三歳の子供がたとえ真実の言葉を言えたとしても、その事は八十歳の老人になっても中々実行できないであろう」と。この言われた事の意味は、三歳の子供に真実を説く言葉がある。これをよく勉強してみるがよい。そしてまた八十歳の老人に実行し得ないという現実がある。このことをよく考えるてみる必要がある。

子供の語る言葉は、真実を説いているか否かは、お前自身の勝手な批評に任せておこう。しかしながら、そこに生きている現実の子供は絶対の存在であるから、どちらでもいいと言うわけにはいかない。老人が真実を実践できるか否かはお前の判断に任せる。しかし、八十の老翁が苦心惨憺して善い事をやろう、悪い事をやるまいと努力している実態というものは、絶対の事実であって、どっちでもいいと言う事にはならない。

釈尊の説かれた宇宙の秩序と言うものは、この様に判断し、この様に説き、この様に理解する事を基本的な考えとしている。
 
         「正法眼蔵 諸悪莫作」
         延応庚子月夕
         興聖宝林寺において衆僧に説示した。

※西嶋先生解説
以上が「諸悪莫作」の巻。この「正法眼蔵諸悪莫作」の巻というのは、我々の日常生活における善悪と言う問題について説いておられるわけ。こういう説き方の教えと言うのは非常に少ない。西洋でもたくさんの哲学者がおり、たくさんの思想家が出て、善悪と言うものを色々説いておられるけれども、実践的な日常生活との関係で説かれた善悪論と言うのは非常に少ない。だから人間には善と言う性質があるのか、悪と言う性質があるのかということで、まず基本的な立場を決めて、善悪があるという考え方と、それから善も悪もないんだ、人間が何をやろうと善悪なんかないんだという考え方と、二通りの考え方が西洋では盛んにおこなわれている。で、それがどっちが正しいということで何千年となく争いを繰り返しながら、人類の文明は進んできた。

釈尊の教えのどこに特徴があるかと言うと、日常生活の現実の動きと言うものと善悪と言うものを関連付けたと言うところに釈尊の教えの特徴がある。その特徴が説かれている巻としてこの「「諸悪莫作」の巻と言うのがある。その中心は、善悪を口で言う事と実際に行う事とは非常に違うという。善悪というのはどういう問題かというと、口先で論議すべき問題ではなくて、日常生活をどう生きるかという問題である。しかも、それは事実そのものである。それは人間の気持ちで、ああしたい、こうしたいと焦ってみても中々出来るものではない。

むしろ体を調整し心を調整すると、自然に善悪の問題というふうなものが全て解消してしまう。それはただ坐禅を毎日繰り返すという事に他ならない。その事を道元禅師は「只管打坐」と言われた。そして、道元禅師は釈尊の教えというのは、ひたすら坐禅をすることに尽きると言われたという事になろうかと思う。


読んでいただきありがとうございます。


 
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526: by うみのすけ95 on 2016/03/03 at 13:36:22

なるほど・・私に知れるチャンスを与えていただきまことにありがとうございます。只管打坐をためしてみることにしますね。またきます。

527:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2016/03/03 at 15:59:06

うみのすけ95さんコメントありがとうございます。
坐禅はやってみて初めて「坐禅」がわかります。道元禅師の「正法眼蔵」は坐禅の中身が書いてあると「西嶋先生が言っていました。

     ー坐禅の勧めー  

坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。
姿勢反射が働いて交感神経と副交感神経とが同じ力になる。
考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。
実行力が生まれ、
やりたいと思うことがすぐできるようになり
やりたくないと思うことは止めることが出来る様になる。
自分自身と宇宙とが一体になり最も幸せな人生を送ることが出来る。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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