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正法眼蔵 諸悪莫作 23

白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

過去における高僧が言われた。「お前がオギャ-と泣きこの世に生を受けた時、すでに釈尊と同じように真実を説くだけのが天分を持っていた」と。釈尊と同じように真実を説くだけの天分をもっていたという事は、「オギヤ-」と泣いた声そのものが、釈尊の説かれた説教(宇宙秩序)と全く同じ意味がある。そう言うところに、人間の持っている生命というものの意味の深さがあり力量がある。その事をつかむか、つかまないいかが人生をどう考えるかということ、どう捉えるかと言う事の非常に大切な分かれ目になる。

また、過去における高僧が言われた。「この世における生き死にや日常の明け暮れこそ、人間の真実の姿である」と。

※西嶋先生解説  
金を儲ける事も大切、商売が繁盛する事も大切、自分の成績を上げることも大切、人に知られるという事も大切、人に尊敬されるという事も大切。しかし、一番の基礎は日常の生活、日常の明け暮れ。朝起きてから夜寝るというふうな、二十四時間をどう生きるかと言う事が人間の一番大切な事。


したがって、人間とは何かと言う事の実態を明らめて、釈尊と同じ様に自分の言葉というものに真実の意味が込められると言う事は、人間が一生をかけて取り組まなければならない大事業であり、たやすい筈がない。この様に考えてくると、三歳の子供の持っている本当の意味、三歳の子供がやるところの日常生活の行いと言うものがどういう意味を持っているかということをはっきりさせることが大切な問題である。

白楽天は三歳の子供の行いと言うものの意味と、三世諸仏(過去・現在・未来に亘っての真実を得られた方々)の行いの持っている意味と、どこの点が同じで、どこの点が違うかというふうな問題についてはっきりしなかった。そのために三歳の子供の言葉がいったいどの様な大きな意味を持っているかということがわかっておらず、また三歳の子供の言葉に大きな意味があるということも考えつかなかったために、上記(問答)のように言ったのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は、親の七光りということは・・・。

先生
そういう事は社会にあります。それでそのことが幸せな面もあれば不幸な面もある。親が偉いと、子供も当然えらいもんだと言う風な錯覚で見られるという場合がある。そうすると社会から期待されて、どの程度やれるかと思って試してみたら、親とだいぶ違ったと。そうすると、親の偉かったことが子供のマイナスになるという場合もいくらもある。それから親がいるうちは非常にに恵まれてておった、親が死んじゃったらボイッとどっかに捨てられちゃった、と言う風な例も世間には決して少なくない。また親の偉さを十分に利用して、自分自身の力を大いに伸ばしたと言う例もある。

だからそういう点では、親の七光りというような事実があることは確かだし、それの現れ方も千差万別ですよ。本人の能力次第、努力次第、親の能力次第、親の努力次第と、そういう具体的な環境の組み合わせでいろんな場合が起こり得る。そういう問題です。だから、親さえ偉ければ何でもいいんだというわけにもいかないし、親が偉くない方がはるかにいいんだ、と言うわけにもいかないし、そういうことだと思うんですよね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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