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正法眼蔵 諸悪莫作 21

白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

一般的に言って釈尊の説かれた教えと言うものは、師匠について初めて教えを聴き始めた時と、修行を積んで究極のものに到達してから教えを聴くのと変わりはない。これを最初も正しければ終わりも正しいと言い、善い原因は善い結果を生むといい、初めが釈尊の教えに合致しておれば、終わりも釈尊の教えに合致しているという。釈尊の説かれた教えの中における原因・結果の関係と言うものは、釈尊が亡くなってから二百年近くたって小乗仏教という教えが生まれ、原因、結果の関係を論理的に哲学的に考察しいろいろ説明したけれども、釈尊の真意は真実を体得した人の原因が、常に真実を体得した人の結果をもたらすと言う事である。

鳥窠道林禅師は先ほどの答えから推察すると、仏教に関する基本的な教えと言うものを口にしているのであるから、釈尊の教えを十分身につけていたと言う事が出来る。たとえ我々の住んでいる世界に悪事が満ち満ちて、悪というものが我々の住んでいる世界の一切を飲み込んでしまっていると感じられても、また事実がそうであろうとも、その中に生きている我々のあり方というものは、結局はやらないという事に尽きるのだし、やらないという状況も乗り越えて現実の日常生活の中で坐禅をすることである。

※西嶋先生解説
坐禅と言うのは、そういう点では、仏も乗り越える道、善悪を乗り越える道。先程四十五分坐禅をやったわけだけれども、あの時には善もない悪もない。善も悪も乗り越えた境地でジ-ッと坐っておった。それが仏の境涯。その仏の境涯と言うものを味わうと、人間社会の様々の善悪、戦い、憎しみ、愛憎と言う風なものがきわめて儚いものとして映るようになる。もっと本質的なもの、手ごたえのあるものと言うのが我々の日常活の中に出てくる


そしてまた様々な善を行うと言う状態を考えてみるならば、初めも善、中ごろも善、終わりも善と言う性質のものであるから、善とは実行と言うことの本質、形相、体貌、原動力等がそのまま発現したものである。白楽天は、善悪の問題が頭の問題、言葉の問題というふうに理解したので「そんな事なら三歳の子供にも言う事ができよう」と言ったのである。白楽天は真実の言葉と言うものを口にすることが出来る様な力量でなかったために、この様に言ったのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お伺いいたしますが、坐禅を毎日やってると、昏散ですが、非常に眠くなる時と、非常に気が散る時があるんですが、どういう風にそういう時はしたらよろしいでしょうか。

先生
これは特別な方法があるわけでじゃなくて、頑張る以外にない。つまり眠くなったら寝ない様にと思って一所懸命やる。それが修行。だから人間誰でも修行が積んだらもう眠くならないんだと言う様な事はない。どんなに修行を積んでも、やはり体の状況で眠い時がある。その時に眠ってはいかんということで頑張ることが、自分の状態が真ん中の方に寄ってくることにつながる。それからまた憂鬱でクヨクヨクヨクヨ頭で物事を考えてすっきりしない場合がある。その時もそういう状態から脱け出そうと思って坐禅をずっと続けておれば、自然にそこから離れていける。

だから無念無想と言う様な事を言って、修行が積んだら、坐禅を始めたらもう全然何の想念も起きないというふうなことをよくいいますけれども、そんなことはない。何十年やろうとも、やっぱりその時の状況、状況によって、眠くてしょうがない時もあれば、いろんな考えが起きてきて次から次へと悩まされるという風な事もある。それはそれなりに、そういうものがあるのが人間であり、それを乗り越えて行くのが坐禅ということだと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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