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正法眼蔵 諸悪莫作 20

白楽天と鳥窠道林禅師の問答について道元禅師の注釈です。 

白楽天は白将軍という有名な将軍の子孫ではあるが、白楽天自身はたぐいまれなる詩人であった。人が言い伝えたところによると、中国において二十四人の優れた文学者の中の一人に数えられている。白楽天は文殊菩薩の生まれ変わりだと言われたこともあるし、弥勒菩薩の生まれ変わりだと言われた事もある。その詩文の優れた味わいと言うものは天下に鳴り響いている。文学者の世界においては、白楽天を尊敬しない者はいない程である。

しかしながら文学の世界では非常に優れた人であったけれども、釈尊の教えを学ぶという点では初心者であり後輩である。ましてこの「悪事をするな。善事を行え」という言葉の意味を夢にさえまだ見たことがない様である。「諸悪莫作 衆善奉行」と言う言葉には、「悪事をするな、善事を行え」という意味があると同時に、我々人間は悪い事はやれないものだ、善いことは自然にやるものだという主張がある。

白楽天が推察したところでは、鳥窠道林禅師はただただ意識的に目的に向って努力する様な心構えで、「悪事をするな、善事を行え」と言ったのであろうと解釈した。しかし釈尊の教えの中には、無限の過去から無限の未来にわたって人間は「悪事をやろうとしてもできるものではない、普通の事をやっていれば一切の善行をやった事になる」と言う過去においても現在においても常に通用するところの基本的な考え方というものがある。

白楽天は釈尊の教えを十分に理解する力量がなかったために、「そんなことなら三歳の子供でも言えますな」と言う返事をしてしまったのである。鳥窠道林禅師が「悪事をするな、善事を行え」といった言葉が、仮に人間が自分の意志で、無理に意識的にやる悪を戒め、意図的ににやる善を大いにやりなさいと勧めたという見方も出来るが、そういう状態と言うものを別の立場からみるならば、悪い事をしていないという現実がすでに目の前に出来上がっていることに他ならない。

※西嶋先生解説
我々は日常生活において、悪いことをやっちゃいかん、善いことをやりましょうということで、一所懸命努力しているけれども、そういう努力を乗り越えて、我々の人生というものの実態は、悪いことはやろうとしてもできないものであり、善いことは自然に出来るものだということが現実だ。これはどういうことかと言うと、釈尊の教えと言うのは体の調整、心の調整をまず優先的に言うわけ。体が調整されておる、心が調整されておるということが現実にあるならば、悪いことはそうそう出来るものではない、善いことと言うのは自然にやってしまうものだという非常に楽観的なものの考え方と言うものがここにはっきり出てきておる。だから仮に意図的な悪を警告し、意図的に善を勧めることが仮にあったとしても、いま現に悪いことをやっていないという現実があるだけだ。

この部屋に坐って、「正法眼蔵」の講義を聞いておられる方々と言うのは、自分が善いことをやっておるとか悪いことをやっておるとかと言う、そういう善悪の意識と言う様なものはない。ただおもしろそうだからということで聞いておるのかもしれない、ためになるからと思って聞いておるのかもしれない、あるいは他の事をやっておるよりはちょっと気分がいいからということなのかもしれない。ただこの部屋に入って「正法眼蔵」の講義を聞いておる各人の人生における一コマと言うのは貴重。

そういう点では、善悪というふうに人間が頭の中でレッテルを張って、これは善、これは悪というふうにレッテルで色分けできるものが人生ではない。つまり人生と言うのは、善と言っていいのか悪と言っていいのか、けじめがつかないほどの厳然たる現実の存在。そのことが大事。そのことに気付き、そのことを法として受け取ることが仏道。

だからそういう点では、仏道と言うのはある意味では善悪を乗り越えた教えということにもなる。そのことを現実にやらないだけだ。何の理屈も難しさもなく、現実にやらないだけだ。またやれないものだ。特に泥棒になろうと思って一念発起しなければ、なかなか泥棒にはなれない。ふつうに育っていけば、そういうものにならないで一生が終われるわけ。ところが環境のせいでや何かで、無理にそういう風に人間が歪められていくといろんな性格ができ、いろんな行動が生まれて来るということにもなる。だから現実にやらないだけだ。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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