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正法眼蔵 諸悪莫作 18

仏教には昔から、有名な偈として「諸悪莫作、修善奉行、自浄其意、是諸仏教」という仏教の基本的な教えが伝わっています。これまでは「諸悪莫作、修善奉行」を勉強してきましたが、「自浄其意、是諸仏教」に入ります。
 
自浄其意と言う言葉の意味は、1・悪い事をやらないというのは誰かと言うと自分自身である。2・悪い事をやらないということは人の気持ちを浄くする。浄くなった人と言うのは誰かと言うと自分自身である。3・悪い事をやらないというのは自分自身の問題であり、抽象的に頭の中にあるのではなくて現実の事実である。4・それは自分自身の問題であり、自分自身でどう考えるかと言う事でしかない。5・悪いことを具体的にやらないと言う事だけの問題であり、そう高尚な理論でも何でもない。6・悪いことをやらないと言う気持ちを自分自身が持つか持たないかだけの問題である。

7・善い事をやるという段になると、自分自身が一所懸命やろうと言う気持ちを持つか持たないかだけの問題である。8・何が浄いかというと実際に善いことをやるということだけの問題である。9・善い事をやると言う事はきわめて具体的な個別的な問題で、日常生活で理屈ではなく具体的にどれをやるか、やらないかと言うだけの問題である。10・善い事を誰がやるかと言えば、自分自身がやる、やらないと言うだけの問題である。

この様に、自浄其意は具体的な個々の日常生活における問題であるから、是諸仏教(これこそが真実を得られた方々の教え)と言われるのである。ここに言う諸仏は、古代インドにおいて仏教が生まれる以前から信じられていた自在天(シバ神)と同じだという捉え方もできるけれども、必ずしも一致はしていない。またインドを支配していたと信じられていた転輪聖王と仏は似ているけれども、必ずしも完全に一致しているわけではない。このような基礎理論を考え学ぶべきである。仏とはどのようなものかということも学ばずに無駄に努力することは、外見では大変苦労をしている様にみえるけれども、苦労を重ねている凡人に過ぎず、本当の意味で仏道を実際に修行している事にはならないのである。

諸々の悪いことをやらないとか善いことをやるとかという実践に関する問題は、Aの事態がまだ去らないのにBの事態が出現するといったような、平凡な日常生活の明け暮れである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たとえば、我々は日常生活で色々な法律に囲まれておりますね。次から次へと出てきますが、それを知らないでおりますと罪になりますね。その辺の事情はどういうことになりますか。

先生
それでその場合の法律との関係では、善悪の問題と言うのは法律以前の問題ということでもある。だから社会が発達しないで法律がなかった時代でも善悪はあった。法律とはどういうものかと言うと、人間がたくさん寄り集まって生活していく上において、これだけは守らないと人に迷惑をかけるということが法律と言うものの基礎。だから法律は人に迷惑をかけないということが基準になっておる。だから法律さえ守っていれば人間は善人かと言うと、そうはいかない。法律では別に禁止されていないことでも悪いことはいくらでもある。

だからそういう点では、法律と言うのは特に人と人の関係で、人に迷惑をかけるかけないとかと言う基準で枠がはまっておる。もっと細かい善悪の問題は、法律よりさらに細かくある、そういう関係だと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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