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正法眼蔵 諸悪莫作 16

道元禅師の説示は続きます。

善を行うと言う事はただ自分で行う、実際にやると言う事に過ぎないけれども、それを頭で考えようとしても考えきれるものではない。いま一所懸命やっている状態と言うものは、実に生き生きとした見方に基ずく活動であるけれども、頭の中であれこれ考えて割り切れるものではない。またそういう行動と言うものは、この現実の世界を頭の中で割り切るために、現実にこの場面に生まれて来ているものではない。この様に、現実の行動の世界において活躍する主体によって考えられるものは、それ以外のものによって頭の中で抽象的に考えられる立場のものと同じではない

諸々の善というものは、存在するとか存在しないとか、物質的なものだとか物質的なものでないとかと頭の中で考えるものではなくて、ただ実行するだけのものである。あらゆる場所における現実の姿、実際に行う善が実現する状態と言うものやいずれの時間における善の実現する状態も、実際に行うからこそ善が生まれて来るのであり、実際にやらなければ善と言うものは生まれて来ようがない。人間が何かをやる事によって、例外なしに諸々の善は現実の世界に姿を現すのである。

実際に人間が善をやる事によって生まれて来るところの善と言うものは、これは法の世界(現実の事態)ではあるけれども、生まれて来たとか消滅すると言う抽象的な捉え方のできるものではないし、原因によって生まれた、環境によって生まれたというふうに捉えることの出来るものでもない。人間の行いが、この世の中に姿を現すとか、この世の中に留まっているとか、この世の中から姿を消すという状態も、やはり今述べたと同じように生まれて来たとか消滅すると言うふうな抽象的な捉え方のできるものではないし、原因によって生まれた、環境によって生まれたというふうに捉えることの出来るものでもない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分で自分を運転すると先生はおっしゃいましたね。それはつまり、自然の法に従うということなんでございましょうか。

先生
そういう意味も含まれています。そのことはどういうことかと言うと、自分自身で勝手にいろんな考え方を持って、こうしようああしようとやってみても、実際にうまくいかない。それはなぜかというと、自分の考えが現実離れしておれば、こうしたいああしたいと思っても、あっちへぶつかりこっちへぶつかりで、うまく実現しないという問題がある。

そうすると、この我々の住んでおる世界と言うものがどういう形になっておるか、どういう現実なのかということをよく見据えたうえで、何が出来るかということを考えながら行動しないと、自分自身の運転はできない。車でいえば道のないところへドンドン乗り入れていけば、なかなかうまくいかないということでもある。だから道がどうなっておるか、交通規制がどうなっておるかということも良く頭に入れたうえで自分自身を運転せざるを得ないということ。

だから今言われた自然にそって動くのかということになれば、自然ということの意味がどういうことかということも問題になりますけれども、やはりそういう与えられた法則、規則と言うものに従って生きるということも含まれてくる。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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