トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 諸悪莫作 15

道元禅師の説示は続きます。

様々の善と言うものは、原因や環境によって生ずるものではなく、原因や環境によって消滅するものではない。様々の善は我々の行動を通して現実のものになるのであるけれども、この現実の世界がすべてが善ではない。原因とか環境とかと言うものも、生まれるとか消滅するとかというものも、様々の善というものも、それぞれいずれも、最初が正しければ終わりも正しいという状態がそれぞれのものについてあるに他ならない。

様々の善と言うものは、それをただ行うということに尽きるのであるけれども、それは自分がやったということでもなければ、自分の意識でそれが知れるものでもない。自分以外のものによってやらされたということでもないし、自分以外のものによってそれがどうなっているか分かるというものでもない。頭の中で物事を考える場合には主観もあり客観もある。また物事を見るという場合にも、主観があり客観がある。見るものがあり見られるものがある。

この様に見るということについても、主観(見るもの)があり、客観(みられるもの)があるという状態であるから、日常生活における瞬間瞬間の活き活きとした見方が、具体的に太陽とか、月とかと言う様々の場面を現実のものにするわけであるけれども、我々が行動することによって月も意味を持ち、太陽も意味を持つという関係こそ行うということの意味である。

これまで述べた様に、この世の現実と言うもの(法)は、我々が何をするかによって現実のものとなる世界であるから、人が朝起きて日の出を見ることによって、太陽と言うものが現れ、日の出と言うものが意味を持ってくる。人間の行いを中心にしてこの現実の世界は回転していると見ざるを得ない。その様に人間が何をするかと言うまさにその瞬間において、現実のこの宇宙と言うものが実際に存在するのであるが、それは現実の世界がその時初めて出現したということでもないし、現実の世界がその瞬間より前から、恒常的に存在したと頭の中で考えて捉え得るものではない。さらに本来の行いというふうな説明ですらなお不十分である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
人間が自分の意志で何かやってきているというのはおこがましいんであって、その辺のアメ-バでもゴキブリでもああしてやっぱり自分の意志で生きてると考えざるを得ないと思うんですが、その辺、先生はどういうふうにお考えになりますんでしょうか・・・。

先生
それでね、人間と言うのは他の動物とどう違うかと言うと、最大の大きな特徴は頭脳が発達している、脳細胞が発達しているということ、これは他の動物と違うところ。そのことはどういうことかと言うと、人間という動物は自分で自分が運転できる、あるいは自分で自分を運転できると錯覚し得るほど、人間の頭脳と言うのは発達している、その人間の頭脳が発達しているということがどういう結果をもたらすかと言うと、脱線する能力も持っているということ。

レ-ルの上を走るという能力を持っておると同時に、脱線する能力も持っておる。他の動物は脱線する能力を持っていない。人間は脳細胞が発達しておるから、自分の頭で考えて、悩みに悩んで脱線する能力を持っておるわけ。だから脱線する能力を持っている人間は、脱線しない様にする努力が必要だし、脱線したら元の線路に戻る必要がある。だからそういう点では、人間は能力があると同時に外れる危険も持っている、という点が他の動物と違うんだと。

だから仏教が必要であり、哲学が必要であり、文化が必要であるのは、人間は脱線する能力があるから、どうしたら脱線しないで済むか、どういう路線が本当の路線かということをいつも勉強しておかなきゃならん。ところが線路が間違っておるのに、これが本当の路線だと思って一所懸命に前に前にと進んだから、行き詰って文化的に滅んでしまった民族と言うのはいくらでもある。人間と言うのは滅亡する自由も持っているということ、脱線する能力も持っているということ、そういう点では他の動物と違うということ、これは一つあると思います。


読んでいただきありがとうございます。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-