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正法眼蔵 諸悪莫作 14

道元禅師の説示は続きます。

説法の現れ方が様々であるのと同じように、善の現れ方も千差万別である。しかも様々な説法が全部同じような関係にあるということは、釈尊が生きておられた時代になされた説法も、ただ時間において行われた。その点ではあの説法も、この説法も時間において行われた。説法も善行も現実の時間において行われるものだけが問題になる。頭の中では善いこと、悪いこと、いくらでも考えられるけれども、実際にやる善行は、今の瞬間においてやるしか手がない。時間において行われるものに過ぎない。

仏の寿命、仏の体の大きさもその時その時において様々の現れ方があるので、初めから頭の中で考えて、これは善いこと、これは悪いことと決めて説くという説法とはわけが違う。頭の中で区別して考えられた教えではなしに、もっと現実的な、もっと日常生活に即した現実そのものが仏道である。したがって、信行(仏教を信じその信仰によって救われていくという考え方)の人の善と、法行(この世の中を支配している真実(宇宙秩序)がはっきりあるということを確信してその原則に従って自分の行動をしていく人)の善とは違っている。違ってはいるけれども、それを実態的に見るならば、必ずしも別のものではないという関係に似ている。

たとえば声聞(理論だけで仏道を勉強している人)の立場から見れば、殺生はいけないから動物も殺してはならないという考え方も起こり得るけれども、菩薩(現実に行動を通して仏道を実践していく人)の立場からすれば、人命を救うためには動物が暴れ回っているのを殺すという殺生戒も犯さざるを得ないということからしても、菩薩の善と声聞の善とは違っている。



          ―西嶋先生の話―
                         --つづき

人間と言うのは、理屈を言っておっても、知識が頭にいっぱい詰まっていても、本を沢山読んでも、自分で自分を運転するということには中々ならない。知識が増えるということと自分を運転できるようになるということは別の事。どうせできないんだからと言って諦めて、おいしいものを食べましょう難しいことは言わないでテレビでも見て酒でも飲んでましょうと言うことで満足できるかと言うと、人間は案外真面目なもの。どうもデレデレしていると気持ちが落ち着かない。もうちょっとましになりたいと思う。

だからそういう点では、デレデレしておっても満足はいかない。そうかといってちよっとましにしようと思うと、中々ましにならない。そういうのがだいたい人間の普通の状態。釈尊はそれはたまたまその人がそうなっておるだけであって、本来の自分に立ち返るならば、自分で自分の運転が出来る様になると言われた。じゃ、どうしたら自分で自分の運転が出来る様になるかと言うと、それは中々やさしいことではないけれども、毎日坐禅をしていれば自然にそうなると言われた。非常に単純な表現だけれども、そのことを釈尊は言われた。

坐禅をしておって我々は何をしておるかと言うと、自分で自分を運転しておる。理屈を言っておっても、頭であれこれ考えてみても、中々自分で自分を運転するということはできない。ところが足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておる時と言うのは、自分で自分を運転している時。自分で自分を運転しなければ、この〇〇会館に来られない。「よし、行こう」と言う気があったからここへ来たわけだ。自分でやる気がない時にはここまで来られない。ここまで来たということは、自分で自分を運転してきたこと。また決められた時間、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとして坐っているということは、自分で自分を運転しておるということ。

一生が一日一日の積み重ねであるけれども、一日のうちの三十分なり四十五分なり、自分で自分を運転する時間を持つということが、一日一日と積み重なることによって、人間は自然に自分を運転することが出来る様になる。それが釈尊の教え、それが仏教。だから仏教と言うのは非常に簡単な教えということになる。坐禅をしておればもう一切けりがついてしまうという教えである。そういう教えと言うのが古今東西を眺め渡してみると中々少ない。釈尊の教え、仏教と言うものは、西洋にもある、中近東にもあるという教えではなくて、様々の教えがあるうちでたった一つ、自分自身を運転できるにはどうしたらいいかということを教えられて、それを坐禅に求められた。

普通の教えと言うのは、坐禅と言う様な修行法がない。聖書に書いてある事、あるいはコ-ランに書いてある事、その他、本に書いてあることが、これが正しいと教え込む。釈尊の教えと言うのは、そういう言葉の教えではなしに、各人が自分の体の調整、心の調整が出来た時には、自分で自分が運転できるようになるということを言われたと考えて間違いない。
                   

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524:毎日坐禅 by 正田寿男 on 2016/02/22 at 02:12:49

「どうすれば自分で自分が運転できるか」
「毎日坐禅をしていれば自然とそうなる」

西嶋先生の「人も企業もバランスが命」を読み終えました。そこには、「私の生い立ち~仏教及び坐禅との出会い」の項目で先生自身の生い立ちと、なぜ先生が仏道へ入り、毎日欠かさず坐禅をするようになったかが、素直にわかりやすく書かれていてとても共感しましたので、ここに紹介させていただきます。

先生のサラリーマン生活時代に地方支店転勤をさせられた際、馘首の危機にさらされ、薄氷を踏むような日々が続く中、このままではいけないという焦りを感じる生活の中で、「私にとって絶対の支えになったのは坐禅だった。」
「坐禅を始めると毎日が穏やかでのんびりしているが、同時に適度な緊張感を持続することができ、やりたいことを比較的素直にやることができるようになった。そこで、それ以後は適度の緊張と落ち着きが混在する、イキイキした生活を維持するため、一日も坐禅を欠かすことができなくなったのである。」

525:Re: 毎日坐禅 by 幽村芳春 on 2016/02/22 at 15:13:22

正田さんコメントありがとうございます。

先生は地方勤務を終え本社に戻り、日本証券金融(株)常任監査役として役員の列に連なり、当時世界ではまだまだ通用しなかった証券業界を世界に通用する証券業界にするため頑張ったと、先生から直接その頃のお話をお聞きしました。

実は先生が地方支店転勤をさせられ、馘首の危機にさらされ頃の日常生活が「NHKサラリ-マンライフ」と言う番組で紹介されました。今から35年くらい前の話です。私はたまたまその番組を見ていたのでした。ビックリです。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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