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正法眼蔵 諸悪莫作 12

道元禅師の説示は続きます。

仏(真実を得た人)の姿は、空間のようなものであって、その時の場面の状況によって形を現し、その有様は水の中に映った月と同じである。その場その場でどうにでも変わる。海に月が映れば波があるから波に砕けて様々に変わる。静かなバケツの中に映れば月はまん丸くなっている。水の状況がどうであるかによってどうにでも変わると同時に、人間の行いも瞬間、瞬間でどうにでも変わる。本来悪と言う様な事は絶対ない。本来善と言う様な事は絶対ない。今置かれた瞬間においてどうするかによって、どうにでも変わる。

客観的な世界の様々な事物に応じて現れてくるところの悪いことをやらないという状態であるから、架空な頭の中で考えられたものではなくて、現実の日常生活における我々自身の姿として、悪いことはやらないということに他ならない。たとえば指先で他人の財布を取れば「スリ」と言われ追われる。電車で年寄りに席を譲れば「あの人は偉い」と言われ偉い人になる。Aの事をやればAの人、Bの事をやればBの人、ただ自分自身の行いがどうかにかかっている。

それは水の中の月の様に、水の状態によって月の姿はどのようにでも変わる。水が月によってその姿を限定され、また月が水によってその姿を限定される。環境と主観と言うものはお互いに影響し合って、現実の事態と言うものを生み出しているのである。このように我々の日常生活における善悪の問題と言うものは、疑う余地のないところの現在の現実の事実である。

※西嶋先生の解説
道元禅師は善悪と言うものをこういう風に説明しておられる。これは普通の我々の常識的な善悪の説明と違う。普通、本屋さんに行って本を買ってみると、こういう善悪の説明はされていない。二通りの説明がある。一つは、人間の性質は善だから、何をやっても結構ですよと書いてある。それからもう一つの種類の本は、人間の性質と言うのは悪だから、いくら努力してもダメですよと書いてある。

釈尊はこの二つの考え方を否定された。何でもかんでも自分自身のやりたいようにやれるかと言うと、なかなかそうはいかない。そうかといって駄目だということで諦めておったんではらちがあかない。人間の生活と言うのは、与えられた現在の瞬間をいかに生きるか。それは非常に微妙なもの。非常に微妙なものであるけれども、非常に素晴らしいもの。一日一日をどう生きるかによって自分の人生はすっかり決まってしまう。初めから自分の人生はだめと決まったわけのものではない。そのうちいいことあるよと言う楽観的なものだけで安心していられるかと言うとそうもいかない。自分の人生は何かと言えば、一日一日をどう築くかということだけになる、そのことが釈尊の教え。

だけれども、今日、本屋さんに行けば、そういうことの書いてある本は割合少ない。まあ心配しなさんな、大丈夫だよということと、どうせだめなんだから諦めなさいということと、どっちかの考え方が書いてある本が本屋では本棚にいっぱい詰まっておる。ところが我々の生きている世界における真実と言うのは、どうも釈尊が言われた教えと言うのが最も適合している。ただ、その現実に適合した考え方と言うものが今日は衰えているから皆信用しない。だからこういう仏教的な考え方が出て来ると首をかしげてしまう。どうも難しい、そんなもんかな―ってことで、勉強する気さえ起きないというのが世間のあり方ということでもあろうかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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