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正法眼蔵 諸悪莫作 11

道元禅師の説示は続きます。

露柱であるとか、灯籠であるとか、自己であるとか、様々の対象をこの様に勉強してくることは、現実に存在するところの法(宇宙秩序)である。法(宇宙秩序)が現に我々の眼の前に現れている姿である。 主観(自分自身の側から物事を考え)、客観(自分以外のものを中心として物事を考える)その両方の考え方が兼ね具わらないと仏道にならない。

人間の存在と言うものが、主観的なものでもなく客観的なものでもなく、現に眼の前にある事実だとすると、悪事をやると言う事もありえない。 本人が気にして「悪い事をしてしまった」と後悔する様な事も、「悪事はやるまい」と言う努力から生まれた力であり結果に他ならない。しかし、悪事は「やっても悪くない、やらなくても悪くないということならば、悪いことを一つやりましょう」と強いてやってやろうと努力するならば、北に向かって歩きながら、南の越の国に行くことを期待する様なものである。

この世の中と言うものは、人間のつまらない計らいで出来てはいない。諸悪莫作ということは、曹山本寂大師と強上座との問答の如く、ロバが井戸をのぞいた場合には、ロバの姿が井戸に映るだけでなく、井戸の水がロバの姿を映す事でもあり、井戸が井戸の姿を写し、ロバがロバの姿を映し、人が人の姿を映し、山が山の姿を映す事でもある。つまりいろんな理屈と言うものを乗り越えて、ロバはロバなりに、井戸は井戸なりに、人間は人間なりに、山は山なりに、一切のものがありのままにあるということである。

この問題に関しては、現実における、この我々の現在の状況と言うものにまつわるところの基本的な考え方を説くという、この理論があるからこそ、諸悪莫作なり(悪は作りようがない)という理論が出て来るのである。

※西嶋先生解説
これは単に、抽象的に主観とか客観とかと言うものに重点を置いて、どちらかの片一方からながめると言う事ではなくて、現在の自分が置かれた状況において現実に即して問題を考えるならば、諸悪莫作なり(悪は作りようがない)。だからそういう点では、「正法眼蔵を読む、読まないという風な事よりも、自分の日常生活、朝起きてから顔を洗って、ごはんを食べて、電車に乗って会社に行く、あるいは学校に行くという風な、自分自身の日常生活の瞬間、瞬間を考えてみれば、何でもないこと。

自分で、よ-し、やってやろうということで、悪いことを努力してやるのでなければ、日常生活は、ご飯をたべるにしても、顔を洗うにしても、会社に行って仕事をするにしても、悪とか善とか、そんなくだらないものは出てくるはずがない。ただ一所懸命セッセセッセと自分の目の前にある仕事をやるに過ぎない。それが我々の生活。

ところが人間と言うのは考え過ぎがちだから、善がどうの悪がどうのということで、いろいろ頭を悩ます。道元禅師はそんなくだらんことを考える必要はない。善も悪も我々の生活にあるはずがないと言われた。


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
516:諸悪莫作 by 正田寿男 on 2016/02/18 at 23:26:31

「諸悪莫作」も、
日常の生活では、目の前にあることにただ一生懸命セッセセッセとやることが大事と、行動で考えればわかるような気がします。

517:Re: 諸悪莫作 by 幽村芳春 on 2016/02/19 at 10:12:27

正田さんコメントありがとうございます。

「悪いことはやろうと思っても、坐禅さえしていれば悪事がどこかに行ってしまって出てこない」と言われる道元禅師の言葉を素直に信じて、毎日坐禅を基礎に生活しています。私の場合は、眼の前の事がせっせせっせとやれるようになったのは坐禅ををするようになってからです。

518: by うみのすけ95 on 2016/02/19 at 11:25:27

確かに何が善で何が悪かというのは頭を悩ませる大きなポイントですよねすごくわかります。ボクもがんばりますいっしょにがんばります。修行させてください師匠w

519:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2016/02/19 at 17:50:33

うみのすけ95さんコメントありがとうございます。

「正法眼蔵」はまだまだ続きますので、読んでくださいね。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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