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正法眼蔵 諸悪莫作 10

道元禅師の説示は続きます。

悪事とは、ただ現実にやらないだけである。たとえば、他の木は枯れているのに、冬でも緑の葉が繁っているを、哲学的にこれを考えて松は本来ないものだと言ってみたり本来あるものだと言ってみたりするけれども、その理論は両方とも間違いである。 松は人間によってつくられたものではない。 ただ冬の松がこの大自然の中の一つの情景としてあるに他ならない。

秋の季節に咲き誇るも、普通の哲学的な論議では、菊が有るとか無いとかと言って議論をするけれども、有るとか無いとかという論議の対象ではなくて、菊が何によってつくられた、出来上がったというものではなくて、もっと本源的な事実として、秋の菊として現に目の前にあると言う事に他ならない。
 
そういう点からすると、諸仏(真実を得た人々)というものも、本来この世に有るもので、修行も何もいらないと言う考え方は誤りである。 また、仏(真実を得た人)と言うものは、本来この世にあり得ないという議論も正しくない。 悪い事をやらない人が、そこにいると言うに過ぎない。。

この様に考えてくると、戸外に建っているも、明かりをともす灯籠も、僧侶が儀式のときに使う払子も、僧侶が使うも有るとか無とかという哲学的な論議をしてみても結論はでてこない。仏道と言うものは理屈で、有るとか無いとかと言う論議をすることではなくて、ただ何の作為もなしに、現に眼の前にある事実をそのまま受け入れるということである。

自分自身と言うものについても、有るとか無いとかと哲学的な論議をしてみても結論はでてこない。人間があれこれと勝手な意思でつくり上げたものではなく、現に悪いことをやらない人が眼の前に存在するに他ならない。

※西嶋先生の解説
自分自身についても、自分自身は有るんだという議論も西洋では盛んだし、自分自身は無いんだという議論も西洋では盛ん。自分自身は、有るんだと言う考え方はいわゆる唯心論、精神主義。それから自分自身は無いんだというのは唯物論。唯物論からすれば、人間と言うのは自由意志なんて言うものはなくて、全部環境のせいだと。だから今日、自分が犯罪をするのも社会の責任だと言う風な考え方をする。逆に唯心論の側では、人間と言うものは自由な意思を持っているから、環境がどうであろうとも、とにかく自分は悪いことをしないで済むんだという風な考え方もあるけれども、仏道ではその両方とも正しいとはしない。仏道では、現にいかにあるかということが問題になる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「諸悪莫作」ということは分かったのですが、悪いことをするなって、どれがじぁ悪いかって基準がないと、出来ないんじゃないかと考えたんですけれども・・・。

先生
その点では、結局自分の体、自分の心が正しい状態にある時に感ぜられるもの、それが基準。だから本にこう書いてありますからこれが本当とか、こう書いてあるからこれが嘘と言う風な捉え方ではなしに自分の体が正しい状態にあるか、自分の心が正しい状態にあるかということが、唯一の基準。だから我々が坐禅をするのはそのためです。坐禅のような形で自分の体、自分の心を正しい状態に置いた時に感じられるものが善であり、悪である、正しさであり、正しくないものである。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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