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正法眼蔵 諸悪莫作 9

道元禅師の説示は続きます。

この様に参究してくると、この世には様々の悪と言うものがあるけれども、それらは本来ないものだという理論が現実のものとなってくる。我々の日常生活において悪事をやる、やらないは自分の行動次第であり、悪事をやらないという具体的な事実に助けられて、諸悪莫作(様々の悪事をやってはいけない)との見方が徹底し、坐禅を通して決定的に断定されるに至るのである。つまり坐禅をやっていれば悪事がどこかに行ってしまって出てこない。

この様な状態(坐禅をやっている)の時には、初めも中ごろも終わりも、過去も現在も未来も、悪事をやらないという状態が現実の状態として出来上がっているのである。だから様々の悪事は原因や環境があって出て来るものではなくて、ただ本人がやらないだけである。また悪事は環境が変わってくると、自然にやらなくなるというものでもない。ただ本人がやらないだけである。善悪の問題が落ち着いた状態であれば、この世の一切のものも落ち着いた状態である。

悪事というものが、環境によって、自分のやった事によって、必然的に出て来るもので避けようがないと思い込んでしまって、自分自身でやらないと決心し悪事をしなければそれまでだという現実を見ないならば、それらは哀れな人々である。仏としての素質というものは、環境を通して起こるのであるけれども、環境は仏としての素質と言うものから生まれて来る。つまり、環境とやる主体とは全く一つのもので二つに分かれているものではない。

この世の中には悪事というものが無数にある。我々の日常生活にも無数にあり、悪事と言うものがないわけではないけれども、ただやらないだけである。またこの世の中には悪事と言うものが満ち満ちていて、到底それをよけて通れないと思い込む考え方もあるけれども、ただやらないだけである。悪事とは、ただ現実にやらないだけである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「無分別の法」と言うのはどういうことでしょうか。

先生
仏教の教えと言うのは全部「無分別の法」。それはどういうことかと言うと、我々は普通は頭でものを考える。頭でものを考える限りは、主観的に考えるか、客観的に考えるかと言う区別がすぐ出てきてしまう。そうすると主観的に考えて「何でもかんでも自由になる」というふうな考え方もあれば、それとは逆に問題を客観的に考えて、「何でもかんでも自由にならない」と言う考え方もする。いずれの立場をとっても、善とか悪とかと言うものが非常に固定された形で出てくる。これが善いこと、これが悪いことと言う様な事がそれぞれの考え方ですぐ出てくる。

ところが仏教はそういう考え方は浅はかだ、とい言う事でとらない。普通世間ではそういう考え方だけが通用している。だから本屋へ行って本を読んでみれば,こういうことは善いこと、こういうことは悪いことと、みんな区分けがして書いてある。だけれども、我々の住んでいる現実の世界と言うのは、そういう区分けによって簡単に割り切れる世界ではない。そのことを説かれたのが「無分別の法」。善悪がないわけではない。善悪がないわけではないけれども、常識的な立場で、これが善、これが悪というふうに決めつけられるものではない。

そういう点では、この我々の住んでいる現実の姿と言うものを立体的に説かれたのが釈尊の教え。だから釈尊の教えでは、これが善、これが悪と言う風な事を、単純に常識的な立場で割り切るということをされていない。それが「無分別の法」と言う意味。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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