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正法眼蔵 諸悪莫作 8

道元禅師の説示は続きます。

凡夫が仏(真実を得た人)になる場合でも、自分が何か特別のものに変わると言う事ではないと言う事を、歩いたり、立ち止まったり、坐ったり、寝たりという二十四時間の生活の中でよくよく考えてみるべきである。仏になるという事は、今までの自分自身が急に変わってしまい別のものになってしまうと言う事ではない。変わると言う事よりも、余分なものがなくなり、自分自身の本来の姿に返ると言う事に他ならない。しかし今までと全く同じかと言うと、そう言う事ではない。

我々の日常生活において善もあれば悪もある、あるいは過去からの原因・結果の関係に縛られている。そういう善悪や原因・結果の関係を素材として、善を行い、悪を行わないと言う行動をしていくに他ならない。我々の日常生活における善悪というものは、原因・結果の関係を動かす事は出来ない。また原因・結果の関係を作り変えることもできい。原因・結果の関係に素直に従っていくところに我々の修行がある。

この様な形での因果(原因・結果)の関係が、本来の姿を示して明々白々であると言う事、それが「莫作」つまり「やらない」と言う事である。だから我々は本来から悪いことをやるように運命づけられていると心配する必要はない。我々の置かれた環境をいうものを明々白々とした目で見るならば、自然と悪と言うものは起こり得ない。

いつまでも、すでに行われた「悪」というものもがへばりついていて、それからどうしても脱けられないと言う事ではない。ふっと気持ちを変えれば、すぐに「悪」というものも離れて行ってしまう。因果関係に縛られて、それからどうにも動きがとれないという状態ではない。我々の行動というものは、本来こだわって縛られているとか、自由であるとかと言う捉え方をすべきものではない。日常生活を素直にやっていれば、縛られる何ものもない。日常生活を本来のあり方に即して淡々と行っていけば、善悪の問題などというものは起こり様がない。

※西嶋先生解説
我々の日常行動とは、瞬間瞬間の問題であって、そうこだわって心配する必要はない。善をやりたいと思えば自由自在にできる。悪をやるまいと思うならばこれも自由自在にできる。ところが我々はどうもそうではないと思い込んでおるわけです。だから「自分はだめです」と思い込んで、ダメなようにしか行動しない場合もある。それからまた、あれもやれる、これもやれるという風に思い込んでおっても、中々そう自由にやれないということもあるわけです。そうするとその場合には、人間としては、あれもやれる、これもやれるという自分自身の問題の捉え方に間違ったところがないかという反省が必要。

そういう点では、現実を具体的にありのままに捉えるということが、善悪の問題ということを考える場合でも大切になってくるという風に考えて差し支えない。

この様に、ここの「諸悪莫作」の巻と言うのは、事が善悪に関連しておるから、その点では堅苦しい。善悪を唱えるということは人間はあんまり好きではない。「そういうことはあんまりやかましく言わないで、まあ楽に行きましょう」と言うのが普通の生き方。まさにそれは人間の当然のあり方として一向に非難すべきことではない。ただそれと同時に、善悪の問題と言うのはやっぱり考えておかないと、自分の人生問題と言うものにはなかなか決着がつかない。だからそういう点では、堅苦しいけれども、たまには考えてみなきゃならんと言う問題でもある。

しかも、この「諸悪莫作」の巻で言われておることはこの次に出てくるわけだけれども、「莫作なるのみなり」と言う言葉が何回も出てくる。「莫作なるのみなり」と言うのはどういうことかと言うと、やらないだけだ、そんな心配したことはない。やらないだけだ、それ以外に仏道はないということをしきりに言われるわけです。まさにその通り、善悪がどうの、自分の環境がどうの、因果関係がどうの、そんなことはどうでもいい。「やらないだけだ」と言うことの一語に尽きるということが次の段で出てくるわけです。


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
514: by うみのすけ95 on 2016/02/15 at 20:36:44

善とは何なのか教えてほしいですww

515:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2016/02/15 at 22:39:46

うみのすけ95さんコメントありがとうございます。

あくまでも私の個人的な考え方ですが、善は人間が考えた概念であるからこれが善だという具体的なものは存在しないと思っています。善には強者の善と弱者の善があると思っています。強者の善は自分に心地良いことが善であり不快なことが悪になる、つまり最初に善が生まれ後から悪が生まれる。
そして弱者にとっては不快な存在である強者が悪であり、その対極にある弱者の自分たちが善になる。つまり最初に悪が生まれ後から善が生まれる。この世の中は一部の強者と圧倒的弱者によって成り立っているから、ほとんどの宗教思想では圧倒的多数の弱者の善が正しい善とされている。つまり善は多数決で決まると言ってもよい。

仏教では現実を信じるわけですから、現実を肯定することが善となります。一般的な善悪に頼らず坐禅から生まれる直観を頼りにします。坐禅をしているそのものが善になります。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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