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正法眼蔵 諸悪莫作 5

道元禅師の説示は続きます。

この最高の教えというものを、ある場合には徳の高い僧侶から聞き、ある場合には経典から聞くのであるが、最初、人間の耳にどう響いてくるかと言うと、「悪い事をするな」と聞こえるのである。「悪い事をするな」と聞こえない教えは、釈尊の教えではない。悪魔の教えであろう。銘記せよ。「悪い事をするな」と聞こえる教えこそ、まさに釈尊の説かれた教えである。

しかし、この「悪い事をするな」と言う教えは、各人が勝手に自分の頭で考えて、教えを自分で作ってそれが釈尊の教えだと考えることではない。言葉として説かれた釈尊の教えと言うものを素直に聞いていると、自然に「悪いことをするな」と聞こえてくるに過ぎない。「悪い事をするな」と聞こえて来ることが、最高の教えが言葉になったところの姿である。この様な教えというものは、真実の言葉であり、また真実を語ることである。

この様に真実の教え(最高の教え)と言うものが人によって説かれ、またそれを聞いてそれによってだんだん自分自身が変化していくことによって、自分自身でも悪いことはやるまいという希望を持ち、悪いことをしないということで日常生活を変えて様々の悪が行われなくなってゆくところに、その実践の効力がたちまち現実のものとなる。しかも善悪と言うものは非常に大きな要素を持っている、善悪と言うものは、宇宙と同じ大きさの量を持ち、時間を持ち、広さを持っている。ではその大きさと言うのは何かというと、悪と言うものについて「やらない」と言う大きさを持っている。

悪いことをやりたいと思っても、ぐっと我慢をしてやらないでいるということは、まさにその様な時において、そのやりたいことをやらずにぐっと我慢をしている当人は、当然周囲の環境からすれば悪いことをせざるを得ないような環境に置かれており、そういう環境に出入りして、どうしても悪いことをせざるを得ないような対象と真正面で向き合っておりながら、またどうしても悪い事をしなければならないような友達が周囲にいる環境に置かれていながら、自分自身がやめておこうとぐっと我慢するところに、悪と言うものの生まれて来る余地がなくなってしまうのである。

※西嶋先生解説。
だから人間は、善悪の問題をいうと、「環境が悪かった」「自分の育った環境が悪かったからこうなった」とよく言う。しかし、道元禅師はそういうとらえ方をしておられない。どんなに悪い事をしなければならない様な環境に置かれていても、グッと我慢するだけだ。「莫作」 と言うのはどういうことかと言うと、ぐっと我慢するということ。善悪の問題と言うのは理屈でもなんでもない。やりたいと思っても悪いと思ったら、ぐっと我慢するということに尽きる。そういう点では、どのような誘惑に満ちた悪に陥りやすい環境にあっても、悪いことをすまいと言う心がけを持っておれば、出てくるはずがない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
善悪を超越するということは、他の宗教でもいってることでございますか。

先生
ただ、超越するということを言っている思想と言うのは、よその宗教でももちろん言っていますけれども、割合少ないと思いますね。なぜ仏道はその超越するということをいうかと言うと、善悪の問題は頭の中で考えられた問題ではなしに、実行の問題だという思想が仏教に特に強いわけですよね。だからそうすると頭の中で考えていることを超越して、実際にやるかやらないかの問題だということをいうわけですからね。善悪を乗り越えるということについては、仏教はわりあい熱心に説いておるという風に見ていいと思います。

ただ、その善悪を超えるという問題について、非常に顕著な意見を述べておる人が19世紀にいるんですよね。それはニ―チェ。ニ―チェというドイツの思想家は「善悪の彼岸」ということを言っておる。善悪の向こう岸ということ。なぜそういうことを言ったかと言うと、ニ―チェの思想と言うのは仏教の思想に非常に近い。つまり善悪の問題にしても理屈じゃない、頭の中で考えた善悪じゃなくて、実際に何をやるかが問題だという思想を非常に強く述べたわけです。その一環して「善悪の彼岸」ということを言った。善悪を乗り越えたところに人間の真実があり、現実があるということを言った。

そういう点では、単に仏教だけが善悪を超越するということを言ったわけではないけれども、しかし西洋思想では今迄わりあい少なかったな思想ですよね、善悪を乗り越えるというのは、ただ現実の我々の日常生活の善悪と言うものを考えていくと、善悪と言うのは具体的なものだから、頭の中だけの問題ではないということがどうしても出てくるわけです。


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コメント
511:”超越” by 阿佐谷北 on 2016/02/13 at 23:11:30 (コメント編集)

宗教や思想の世界で言う、”超越” とは、(詰まるところ)頭で考えていることから離れ、実際にやるかやらないかの問題にせしめるということなのでしょうか? ”超越”、”〇〇を超える” という言葉使いについて、以前から疑問に思っている点です。こうした用語の使い回しにまだ慣れません。ご回答をお願いします。

513:Re: ”超越” by 幽村芳春 on 2016/02/14 at 14:32:29

阿佐ヶ谷北さんコメントありがとうございます

”超越” とは、(詰まるところ)頭で考えていることから離れ、実際にやるかやらないかの問題にせしめるということなのでしょうか? まさにその通りだと思います。

”超越”とは頭で考えて物事を見るとか、感受する働きから生まれる考え方で物事を見るということを捨ててしまう事ではなく、その両方の考え方を統合して物事を見ることだと思っています。
統合して物事を見ることとは、どちらの考え方にも偏らず現実の世界でありのままに生きることだと思います。

ただいくら言葉で説明しようともこの考え方も頭で考えた一つの考え方です。やはり坐禅をして行いを体感することが”超越”という言葉に慣れる一番早い方法ではないかと思います。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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