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正法眼蔵 諸悪莫作 4

道元禅師の説示は続きます。

今ここにいうところの悪い事とは、善性・悪性・無記性(善でもない悪でもない性質)の中の悪である。この悪と言う性質は、突然どこからか生れて来るというふうなものではない。そして善や無記もまた、悪の場合と同じようにいずれもどこからか生まれて来る、何か汚れと言うものと関係があるものではなくて、善も悪も無記も、いずれもこの我々の住んでいる世界の現実の姿である。そしてこのような善も悪も無記いずれも、その現れ方には様々の姿がある。

しかもこの悪という性質には、娑婆世界とそれ以外の世界によって大きな違いがある。この娑婆世界では善いとされているものも、よその世界にいけば悪い事と考えられる。住んでいる世界によって善悪は色々入れ替わる。また時代が変われば善悪について大きな違いがある。善とか悪とかと言う事は必ず時間と共に起きる。しかしながら、時間に常に善とか悪とかと言う性質がある訳ではない。善とか悪と言う出来事は必ず時間において生まれて来る訳だけれども、時間そのものに、善とか悪とかと言うけじめはない。善とか悪と言うことは、我々が住んでいるこの世界における現実の実態で、現実の実態というものには、善とか悪とかを超越したものがあって、いちいちそれを善とか悪とかと言うふうに割り切る訳には行かない。

悪も、現実の問題として現実の世界に安定した存在としてある。善もこの現実の世界が均衡した形であると同じように、善もまた均衡した姿でこの現実の世界にあるに他ならない。我々が釈尊の説かれた最高にして正しく、かつ均衡のとれた真実を学ぶにあたり、教えを聞き、修行をし、体験する場合、その内容たるや、奥深く、偉大であって、微妙である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                                    
質問
そうしますと、天寿を全うするのは必ずしも理想的な生き方ではない・・・。

先生
ではないですね。死ななければならん時には、死なざるを得ないですよ。戦争へ行ってドンドンパチパチやって、アッ弾が来たということになったら、まあしょうがないということですわな。(笑)

質問
そこはちょっと難しいところでございますね。と言うのは、今にしてみれば無駄死にだという・・・。

先生
いや、そんなことはないな。その人にとって、そういう時代において、そういう場面に立たされたら、立派に死んで行って、それがその人の生涯ですよ。だから、後から理屈を考えて、「あれは無駄死にだ」なんて言ったって、歴史を逆戻りさせるわけにはいかないから、映画だったらフィルムを巻き替えて、もう一度カラカラカラともとに戻して、またもう一回やり直しってことはあるけれども、人生とか歴史とかはそういうことが出来ないというところに意味がある。

質問
まだ多少疑問があるんですがね。非常に卑怯な真似をして生き延びて、後で「運が良かった」と言えるわけですね。

先生
だけど、それはどういう考え方が正しいかということなんです。だから我々が仏道を勉強するのは、そういう点で正しい基準を持つということに尽きるんですよ。世の中には実に無数の教えがあるわけです。だから一人の人のやった事を「これは立派だ」と捉える人もいれば「これはだめだ」と捉える人もいるわけです。

質問
「過ぎたるは及ばざるが如し」と言う言葉がありますよね。これはどういうふうに・・・。

先生
その点はまさにその通りなんですよね。人間の行いと言うのは、ちょうどいい状態で行われるということがすべてなんです。つまり時間的にも早すぎてもだめ、遅すぎてもだめということです。いわゆるタイミングということね。それが善悪と言うものの一つの基準ですよ。だから、程度の上で多過ぎない、少な過ぎないということと、時間の点で早過ぎない、遅過ぎないということが、人間の善悪の最大の基準だというふうに言ってもいいと思う。

質問
時間と程度ということですか。

先生
時間と、それから量ですよね。それから場所がどうかということでまた基準が変わってくるわけです。だから善悪と言うものは抽象的に考えるといろんな判断が出来るけれども、突き詰めて言えば日常生活に置かれた瞬間瞬間でやるべきことだというのはたった一つしかない。そのたった一つしかない事を着々とやっていくというのが我々の人生。だからやさしいようで難しい、難しいようでやさしい。間違えようしても間違えられないほど厳密に我々の日常生活というものは決まっている面があるわけです。
ところがそれを嫌がって逃げ回ろうとしても、なかなか逃げ切れないし、そうかと言ってそういうものをバカにしておれば、自分自身の人生がなくなってくるしというふうなことで、かなり厳密なものだ。難しいようでやさしいし、やさしいようで難しい。


読んでいただきありがとうございます。


                                  
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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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