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正法眼蔵 諸悪莫作 3

諸悪莫作の巻、本文に入ります。

過去における真実を得られた方々が言われている言葉に、諸悪莫作(様々の悪をなすことなく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)。そうすれば自然にその心が清くなっていく。過去において沢山の真実を得られた方々が共通に説かれた教えとは、この「諸悪を作さず、衆善を行う」ということに尽きる。

これは過去七仏(釈尊以前の六人の仏と釈尊を含めて七人)の共通の戒めであり、古仏(過去の真実を得た人)から、その後の世の仏(真実を得た人)に対して正しく伝えられているところであり、後の時代の仏は、その前の時代の仏からこの教えを代々受け継いで今日に至ったのである。この教えは単に過去七仏の教えというだけでなくて、その他諸々のたくさんの仏の教えに他ならない。この七仏の通戒が述べている基本的な考え方と言うものを、十分に努力して勉強してみる必要がある。

ここで言われている七人の真実を得られた方々の教えというものは、本来それが持っている本質的な特徴を具えている。その伝承してきた教えの内容は何か言うと、善悪の基準と言うものが遠い理想ではなくて、日常生活の現在の瞬間瞬間においてその事態と言うものがよくわかっていると言う事に他ならない。この「七仏通戒の偈」とは、単に七仏だけの教えではなくて、百人の仏、千人の仏、万人の仏というふうな無数のたくさんの真実を得られた方々の教えであり、行いであり、体験である。

※西嶋先生解説
「七仏」
と言うのは、釈尊が現れる以前の時代に六人の仏(真実を得た人)がいたという信仰を基礎にして、釈尊も合わせて七仏と言う信仰があるわけです。道元禅師は「諸悪莫作」という巻においては、まず最初に七仏の通戒と言うものを掲げられて、仏教の基本的な考え方を示されました。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たとえば恋人同士が心中してしまおうと、やむにやまれぬ大和魂で敢然として死地に赴くという様な、ああいう切羽詰った場合は・・・。

先生
たとえばソクラテスが国法を犯したと非難されて牢獄につながれた。そうして弟子に非常な有力者がおって、「自分の力で牢獄から出せるから、逃げてくれ」と言う話を持って行った時に、ソクラテスは「国法に従うことが自分の任務だから、逃げるわけにはいかん」と言って逃げないで、毒を仰いで死刑に服したと、こういうことなんですね。その場合に、仮にソクラテスが弟子の言葉に従って牢獄から逃げておればソクラテスはいないですよ。

歴史上にソクラテスと言う人がおった、それでその人の教説が伝わっておるのは、平然として毒盃を仰いで死んだ事にあるわけです。そうすると人間がどういう行動をするかということは、自分自身がどう生きるかということであるわけです。それがその人の価値を決める。だからそういう点では、ソクラテスが弟子のいうことを聞いて死刑にならなかったとするならば、今日ソクラテスと言われるほどの学説と言うものは歴史には残っていないと思います。平然として毒盃を飲んだところにソクラテスの偉さがあった。そうすると切羽詰ったとか、切羽詰らんとかということよりも、目前にやるべきことが起きたならば、平然としてそれに服するということが最良の生き方だという風に見ていいと思います。

質問
一方にはまた「命あっての物種」なんて言葉もありますが…。

先生
だからソクラテスが「「命あっての物種」ということで、さっさと逃げていけばソクラテスはいなくなった、歴史には残らなかったということであると思うんです。その点では、戦争に行かざるを得ない立場に立った時に、逃げて回っても大してろくなことはないということになれば、まあしょうがないから行きましょうということで行くわけですわな。私なんかはそういう心境だったな。逃げて回ってたってしょうがないから、まあ行かざるを得まいという事で行きましたよね。それでしかないような気がするな。

質問
そうですね。そして生きた人もいれば、亡くなった人もいる。

先生
うん、そういうことですよね。

質問
その選択の問題でふつう迷うわけなんですね。

先生
ただ、逃げようとしても逃げ場がないというのが我々の置かれた立場ですよ。これは戦争だとか死刑だとか、そういう重大問題でなくたって、日常生活の瞬間瞬間において逃げ場がないんですよ。逃げ場があると思っておるから、人間、多少は狡く立ち回ろうなんて言ういろんな考え方を起こすわけだけど、客観的に見れば逃げ場がないんですよ。逃げたと思ったって、それはとんでもない穴の中に自分から頭を突っ込んじまったということだけの事で。 
                        つづく--


読んでいただきありがとうございます。


       
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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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