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正法眼蔵 諸悪莫作 2

「諸悪莫作」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

ただここで道元禅師が言っておられるのは、仏教と言うのはやはり善悪を非常に重視する思想だ。だから大乗仏教の善悪を問題にしない思想と言うものが中心で、小乗仏教の様に善悪を問題にするのは、仏教の区分けからすると地位が低いというふうな考え方があるけれども、それは必ずしも正しくない。また一方善悪と言うのは基準によって様々に解釈できる。だからAの人が善いことだと思っておることが、Bの人にとっては悪いことだというふうな、立場が変わると善悪が入れ替わるということはいくらでもある。だからそういう点では、善悪そのものがなかなか難しい問題を含んでおる。

そういうふうな問題も含めて、仏教においては善悪と言うものが非常に大事だ。ただその善悪と言うものは人間の具体的な現実の状況に即して理解されなければならない。だからそれは頭の中だけで善いとか悪いとかというふうに考えるべきものではなくて、人間の行動として善いとか悪いとかということを考えていかなければならないということを述べておられるわけであります。その考えにおける善悪と行いにおける善悪との違いについて、この「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻では、一番最後のところに中国人の詩人である白楽天と道林禅師と言う僧侶との問答が載せてある。

その話はどういうことかと言うと、白楽天は仏教に関心が深くて、林道禅師のところでも一所懸命修行をしておった。ある時師匠の林道禅師に白楽天は「仏教というのは一体どういう教えですか」と言う質問をした。それに対して、林道禅師が「悪いことをやらない、善いことをやる、それが仏道だ」と言う返事をした。ところが白楽天は仏道と言うのはもっと哲学的な、もっと高尚な教えだと思っておった。そこで「もし仏教と言うのがそういうふうなものであるならば、三才の子供でもそういうことなら言えそうだ」というふうに反問した。ところがそれに対する師匠の返事が「確かに三才の子供でも言えるかもしれないけれども、八十才の老人になっても実行は不可能だ」と言われた。で、白楽天も「なるほど」というふうに感じたので、その場を引き下がったという話がこの「諸悪莫作」の巻の最後のところに載っておる。

そういう話から推察できるところは、善悪と言うものを理屈をこねて「あれがいい」「これが悪い」と言うことをいうのはいくらでもできる。誰でもできる。ただ自分自身が主役になって善いことをやり、悪いことをやらんということが出来るか出来ないかということが仏道の問題であり、非常に大切な問題。口先だけで人に聞こえて都合のいいことばかりしゃべっておっても、自分自身で実際に行動できるかどうかということが仏道の問題。だから普通の思想と言うものは、頭の中だけで「これがいい」「これが悪い」「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言う思想が多いけれども、仏道では実際問題として、実際に行動できるか行動できないかということを問題にするわけです。そういう点でこの「諸悪莫作」の巻は説かれておるわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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