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正法眼蔵 谿声山色 20

道元禅師の説示は続きます。

この世の中には仏(真実を得た人)もたくさんいる。素晴らしい人もいれば、そうでない人もいるけれども、それらの一切が谿声山色(谷の響きや山の姿)である。それと同じような自然のありのままの姿だということを捉えることに他ならない。この様に我々の生きている世界には様々な事象や様々な事態と言うものがあり、谷川が滔々と流れ響きを伝えているが、それはそのまま釈尊の説法であり、釈尊の教えの賛嘆詩である。その事態を取り上げて見ても、それはすでに一切の論議や一切の感情を超越した現実そのものの姿であり、つまらない常識的な考え方にとらわれる事のない独自の境地である。

俗書(論語)においても、「これを仰げばいよいよ高くこれを切ればいよいよ堅し」と言っている。仏教界の先輩方は「天にも地にも一切の場所に真実が満ち溢れている」と言われた。それは春にも緑の色を変えない松の操をも具えておれば、また秋の野に咲きこぼれる菊の美しさも具えているのであり、眼前の現実そのものである。高徳の僧がこの様な境地に達したならば、まさに偉大な指導者と称することが出来よう

しかしこの様な境地にも達していない者が、むやみに人のために説法することは大きな災いのもとである。春の松を春の松としてそのまま認識することができず、秋の菊を秋の菊としてそのまま見る事ができない人は、せっかく仏道修行をするためにあちこち旅をしてわらじ銭をたくさん使っていても、何の役に立つことがあろう。どうして人生問題の根源と言うものを断ち切って、真実と言うものはこれだということがわかり得よう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「結果論」という言葉がありますが、仏道というのはやはりその結果論ですか。
  
先生
いや、結果論じゃないね。 結果論というのは後からの説明でね。 仏道では結果論をやっているほど、我々の人生はのんきじゃないと言う思想です。 結果論ぐらいのんきな思想はないんでね。 後から出て来て、やあ、やっぱり俺の考えたとおりだったと言う様なことをいう訳だけどね。 人生というのは、そんなのんきなものではない。今、何をやらなきゃならんかという事で、年中追っかけ回されてる訳だからね。 結果が出てから、さて自分の考えを述べますじゃ間に合わないわけです。 だから、仏道は結果論ではない。
  
質問
その反省はあっていいのですね。
 
先生
いや、人生は反省していられるほどのんきなものじぁない。 よく、反省が大事だなんていいますが、我々の人生はそんなにのんきなものじぁない。 もう瞬間瞬間の勝負だから。 結果がよかろうと悪かろうと、刻々に我々の人生は燃焼していくわけ。 だから、それは蝋燭と全く同じ。 どんどん、どんどん燃えていっている。 そういう突き詰めたものだという事を感じられたのが釈尊。 我々の一生とは、今何をするかで常に追いまくられている。   

それが我々の人生そのものだ、と教えられたのが釈尊だと考えていいと思います。 「そうあせったってしょうがないから、まあのんびりといきましょう」と言うのが普通の生き方だけれども、そういう生き方で後悔がないかどうかというと、私はやっぱり後悔が出てくるんじゃないかと思う。 そうするとやっぱり、いま一所懸命やらざるを得ないと言う考え方の方が後悔の少ない一生になるんだと思う。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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