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正法眼蔵 谿声山色 19

道元禅師の説示は続きます。

仏道を習い始めた初心者の感情を交えた考え方では、仏道とはどんなものか推測することが出来ず、推測できたとしてもとんでもない見当違いをしている。初心者には仏道とはどんなものか頭で考えてみても中々わからないところであるけれども、一所懸命努力した結果は、最後のものに行き着かないということではない。徹底した境地で釈尊の教えの一番奥深いものに到達した状態と言うものは、初心者がほんの頭の先だけで考えたもの同じではない。そこで仏道とは何かということを知りたい人は、仏道における諸先輩がやられた実際の行動というものを踏み行うべきである。

※西嶋先生解説  
「仏道とは、頭で考える事ではなくて、日常生活で釈尊と同じような生き方をするという事。日常生活を釈尊と同じ様な生き方をするという事の基本は坐禅をすると言う事。坐禅をする以外に仏道修行はないという事を道元禅師はここで主張している。ただ現代人はこういう考え方を非常に嫌う。坐禅なんて時間の無駄だ、本のニ、三冊も読めばわかるだろうと言う考え方をする人が多い。そういう、本を読めばわかるような思想では解決がつかないのが我々の人生。人生問題をよく知りたいと思うならば本以外の事に頼らなくてはならない。仏道における諸先輩がやられた、実際の行動と同じ事をやりなさいと道元禅師は言われた」

この様に何とかして諸先輩の跡を追いかけて仏道修行をしたいという気持ちを起こし、師匠をたずね真実を求めて行くに当たり、高い山に梯子を使ってよじ登ったり、広い海を船で渡ったりするような努力が伴うのである。この様にして自分の師匠となるべき人をたずね、高徳の僧を求めていくならば、ほんの偶然の事からどこかで思いがけなく師匠に遭遇することが出来るのである。そして、その師匠と弟子とのやり取りにおいては、師匠は生物(人間・動物等)にも説法させ、無生物(鉱物・植物)にも説法させる。弟子は体でも聞き心でも聞く。耳で聞くということは誰でもが理解できる常識的な捉え方ではあるけれども、場合によっては眼で音を聞くということも必ずしもないとは断定できない。
        
仏(真実を得た人)に相見した場合、人はその仏の中に自分自身をも発見し、同時に自分以外の他人をも発見する。またとてつもなく大きく優れた真実を得た仏を見る場合もあるし、仏ではあるけれどもその規模が小さい場合もあり、様々の姿をした仏と言うものを見る。たとえ相手が途轍もなく大きいからと言ってそれに驚いたり恐怖をいだいてはならない。相手が小さいからと言って、怪んだり疑ったりしてはならない。



          ―西嶋先生の話―

因果関係と言うのは実に微妙だと思う。一分一厘の狂いもないという仏道の思想はまさにその通りだと思う。幸福になりたいと思ったら、幸福になるような事をやればいい。私は不幸になっても構わないと思ったら、不幸になる様な事をやっていい。ただ不幸と言う状況におい込まれた時に後悔がないかと言うと、必ずしもそうではない。やっぱり幸福でありたいと願うのが人間です。

幸福になる、幸福にならないと言う事も、自分自身で自由自在に出来る事。人間の生き方は自己責任だ。だからその点のコントロ-ルをどうするかと言う事に工夫があり、またそこでこうしたらよかろうと示されたのが、仏道であり坐禅であると、そのような見方がまさに当たっているのではないかと感ずるのであります。


読んでいただきありがとうございます。


   
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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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