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正法眼蔵 谿声山色 18

道元禅師の説示は続きます。

経典に帝釈天が降りて来て修行者の意気込みを試したり、悪魔がやって来て修行者の邪魔をしたと言う話が載っている。修行者が名誉や利得に惹かれている時には、そういうものの影響から逃れられない。修行者の側に隙があった時に、様々な邪魔が入るということを言っている。しかし、慈悲の心で大きく、深く、広く人々を救済しようという願いが長い年月にわたっている場合には帝釈天や悪魔から邪魔をされる事はない。

その様な修行の結果、自然に国王の位に即いたりすることがあり、俗世における様々の幸運に巡り合ったという外見を呈していないでもない。しかしながらこの様な場合は、さらに事態をよく検討して判断すべきであって順境(万事がぐあいよく運んでいるような境遇)に安心して怠ってはならない。愚かな人々はこの様な順境を喜ぶが、それはたとえば、頭の悪い犬が長年雨ざらしになって肉も何もついていないような骨をなめているようなものである。賢人や聖者はこれらの名誉や利得と言うものを嫌う。それは世間の人が汚いものを嫌うと言う事に似ている。

※西嶋先生の解説
なぜこういうことがあるかと言うと、価値の基準が違うということ。我々は俗世間に生きていて、名誉も欲しい、金も欲しいと言う事で生きておるわけだけれども、それも一つの基準です。ただ最高の基準ではないと言う事に気が付かないと、人生の本当の意味が出てこないということ、それが釈尊の教えです。だから釈尊といえども、金は要らん、権力が要らんと言う事を積極的に主張されるということよりも、そういうものに目がくらんで本当のものが見えなくなることを気遣われたと言うふうに理解して間違いない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
この「谿声山色」の巻は、各巻の中でも重要なものですか。

先生
この「谿声山色」の巻は、いわゆる竹の響きを聞いて悟ったとか、桃の花を見て悟ったとかと言う有名な話が載っておるし、それから自然と言うのは我々がよく見聞きするものだからね。そういう点では、この巻と言うのはわりあい魅力のある巻で、わりあい人に好まれる巻ということかもしれない。

質問
重要と言うほどじゃない・・・。

先生
重要と言う点では、どれも同じですよね。どれも同じだと思う。

質問
道元禅師が精魂込めて書かれたからと言うんでもない・・・。

先生
そういうとられ方よりも、体全体で譬えてみればいいですよね。結局「小指は大事じゃないから切ってもいい。だけども鼻は大事だから切っちゃいかん」というふうなことは言わんわけでね。だから小指だけれどもやっぱり鼻と同じように大事で、どっちもなくちゃ困るということからすれば、「正法眼蔵」の中のどの巻が大事で、どの巻が大事でないということは言えないんじゃないか。全部ひとまとまりのものだ。そういうふうに私は見ています。

だから「洗浄」の巻だとか、ああいう日常生活の巻と言うものも、こういう哲学的な意味の深い巻と同じように重要だ。ああいう巻がなければ道元禅師の思想の全体がわからなくなるわけです。そうするといろんなことの書いてある全部の巻を総合したところで、道元禅師と言うのはどういうお考えの人だったかということの推測がつくわけで、その点では、この巻は要らない、この巻は要るというふうな事はどうもないんだろうとみていますね。

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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