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正法眼蔵 谿声山色 17

道元禅師の説示は続きます。

インドにおける祖師方も、仏教を信じない人々(非仏教徒)や、理屈や感覚だけで仏道を勉強しようとする人々、あるいは俗世の権力者や国王から危害を加えられたと言う事がある。しかし危害を加えられたからと言って、その危害を加えた非仏教徒の人々が祖師方より優れていた訳ではなく、また祖師方の思慮が浅かった結果でもない。達磨大師はインドから中国に来られ、嵩山に逗留され仏道修行をされたけれども、梁の武帝も魏の国王も、達磨大師の本当の偉さがわからなかった。

その当時、菩提流支三蔵と光統律師と言う犬にも例えられるような二人の人物がいた。 この二人はすでに仏教界の名声を得ていたが、内実の具わっていない名誉や不正の利益が達磨大師と言う正しい人格によって妨げられるのを恐れ、大空に向かって太陽の光を遮ろうとするにも似た行為を達磨大師にした。 釈尊の生きておられたた時代の釈尊に敵対するデ-ヴァダッタよりも、なおひどいものであった。

哀れな話である。菩提流支三蔵や光統律師が深く好むところの名誉や利得というものは、達磨大師においては糞や芥よりも嫌われたところである。この様な達磨大師に対する非難・迫害が行われた経過と言うものは、釈尊の説かれた宇宙秩序の威勢が行き渡っていないためではなく、善良な人にも吠える犬がいるのと同じような事情だと知るべきである。 吠える犬を気にしてはならない。 恨みに思う必用もない。これらの犬(人々)も導いて仏道の世界に入れてやろうと言う願いを起こすべきである。「 お前たちは動物と同じ様な境遇の人間ではあるが、真実を得たいという志を立てなければならない」と忠告すべきである。

過去の優れた人が言われた。「これは正に人間の仮面をかぶった動物に他ならない。またこれらに対して、帰依したり供養を捧げたりする悪魔の類もあって不思議ではない」と。また釈尊も言われた。「国王、王子、大臣、役人、婆羅門、居士等、いずれも社会的な権力を持った人に親しみ近ずいてはならない」と。 釈尊の教えを学ぼうとする人々はこの心がけを忘れてはならない。 この様な形で真実を得たいという気持ちを起こして、学ぶということの業績が進めば進ほど、その成果というものが積み重なっていく事であろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
けしからん奴を「犬」と言ってますね。道元禅師は「犬」と言うのは、しばしば引用されるんですか。

先生
そうしばしば出てこないけれども、たまに出てきますね。

質問
犬を取り上げたというのは、何か特別な理由があるんですか。

先生
いや、動物の例ですよ。動物ということを言いたいと同じ意味ですね。

質問
犬もいれば猫もいるわけで・・・。

先生
ええ。だから動物ということの一つの具体的な例として出されたまでですよね。だからとくに犬ということに意味があったというよりも、動物の一つの例として出されたというだけのものだと思いますね。

質問
犬と言う表現はちょっとひど過ぎるようにも感じますが・・・。

先生
それは、我々自身が動物の一種であるわけですね。だから何をやるかによって、犬に非常に似たやり方だってできないことはない。それは心がけ次第。犬の真似をしようと思えば、結構、犬の真似が出来るわけです。人が食べている食事をパッと取り上げて食べれば、まあ、立派な犬ですわな。(笑)
だから我々は手が二本、足が二本で、立って歩いているから、動物にはなり得ないんだというふうに思うと、これは事実に反すると思う。我々は何をやるかによって動物にも立派になり得る。つかみ合いのけんかをすれば、まさに動物ですよ。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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