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正法眼蔵 谿声山色 16

道元禅師の説示は続きます。

名誉や利得を得るために釈尊の教えを学ぶということではない。釈尊の教えを学ぶということは、決して国王や大臣という権力者が敬い供養してくれることを期待しているものではない。しかし、現在この様に名誉や利得を求めると言う行為および環境が実在する。名誉や利得を求めると言う事は、本来の目標でもなければ目的でもない。人間にとっての拘束となるような名誉や利得を求めると言う事は本来の狙いではない。

しかしながら愚かな人々は、仏道修行をしているうちにいつの間にか本来の念願を忘れてしまい、何らかの供養を得る事を期待してお供えがあると喜ぶのである。愚かな人々は、天皇や大臣などが帰依すれば、自分の本分が実現したと大いに喜ぶ。これらは釈尊の教えを学ぶ上におけるある種の邪魔である。この様に、天皇や大臣の帰依を喜ぶ境地に落ちた人々を同情してやる気持ちを忘れてはならない。しかし、自分自身がそのような境地に落ちて、天皇や大臣などの帰依を喜ぶ事があってはならない。

過去の真実を得た人が言われた。「釈尊が生きておられた時代においてすら、恨みや嫉妬が多かったと言われた釈尊ご自身の言葉があることを忘れてはならない」と。愚かな人間が賢い人の境地がわからず、小動物のような境地の人が偉大な聖者の境地がわからないと言う道理は今述べたところである。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道と言うのは、幸せを追求する思想と言っていいんでしょうか。

先生
私はそう思います。人間がいかに幸福になるかということが仏道のねらいですよ。

質問
愚問で申し訳ないんですが、テレビを見ていたら、ストレス解消法で椅子に坐って手をもむというのがあるそうなんですね。それが坐禅とよく似ているんです。大学の先生の話では、それをやるには狭心症とか心臓の弱い人は医者の指示に従ってやれということなんです。坐禅も何か体の欠陥がある場合…(笑)、ジ-ッとしているということが健康に関係あるのかなと思いまして。

先生
そういう点では、坐禅をやっていて健康に害があるということは絶対にない。ただジ-ッと坐っていることが健康に向かってどんどん体が変わっていく非常に大きな要素ですよね。だから最近では駆け足が流行って、一所懸命皇居の周りを駆けておる人もいるけれども、普通の常識から考えれば、走っていれば運動になってるし、汗をかいてるしするから健康にはいいだろうと。ジ-ッと坐っていたんじゃどうも健康にはどれほど役に立つのかというふうな疑問が起きるかもしれませんけれども、体を正しく保持しておるということが健康につながる最大の問題ですよね。

だから、手足を動かして汗をかくのも勿論悪くはないですけれども、手足を動かさないでおっても、背骨をジ-ッと保持しておるということが健康を維持し、また健康を高めていく最大のものだと思いますね。

だから、そのテレビでやってた椅子に坐って手をもむという健康法がどういう事情で盛んになっているか分かりませんけれども、そのお医者さんの先生も自分でそういう修行を実際にやっていたのかどうか、その辺もよくわかりませんしね。だからその点では、坐禅は少なくとも二千数百年はずうっと続いている修行法ですから、絶対に心配ないとみていいと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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