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正法眼蔵 谿声山色 15

道元禅師の説示は続きます。

釈尊の教えを学ぶに当たり、師匠から教えられたり、また実際に見たりすることが中々できないのは、釈尊が説かれた正しい宇宙秩序に対する心のあり方である。その心のあり方というものは、真実を得た人から真実を得た人へと代々相伝えられて来たものである。これを真実を得た人の輝かしさ(仏光明)ともいい、真実を得た人の心(仏心)とも称して代々伝えられて来たのである。ところが、釈尊が生きておられた時代から今日に至るまで、名誉や利得を求める事を持って仏道を学ぶ上の心得とするかに見える人々が多い。

しかし、かつて名誉や利得を求めて仏道を学んでいた人々であっても、正しい師匠の教えに出会って心を入れ替え、釈尊の説かれた正しい宇宙秩序を求めるならば、自然に真実を体得する。 現在、仏道を学ぶには、次のような誤りに陥りやすいと知るべきである。たとえば、仏道を初めて勉強し始めた人々でも、長年にわたって修行を重ねてきた人の場合でも、真実を伝え、また行いを伝えるというふうな素質が具わっている場合もあれば、具わっていない場合もある。あるいはそういう機会を得るという場合もあれば、そういう機会を得ないという場合もある。また過去の先輩方の行いを見て、それを一所懸命学ぼうとする素質の人もあるし、過去の先輩方の行いを誹謗しまねようとしないような魔の類もあるであろう。

これら二種類の極端な例はともに恣意的に愛着すべきではない。また自分がどのような素質であろうと、それを恨みに思ってはならない。自分の境遇や自分の素質を考えて、与えられなかった、十分でないと言って苦情を言ってみても始まらない。これらの人々は貪(欲張る)・瞋(腹を立てる)・癡(愚痴を言う)の三毒を知っている人が少ないので、その結果自分の素質についての関心が十分でないのである。まして初めて自分が仏道を得たいと願った時の、自分の心がけを忘れるべきではない。人間が初めて真実を得たいという気持ちを起こす時は本当のことを知りたいという純粋な気持ちに引かされて仏道を勉強し始めるのである。名誉や利得を得たいから釈尊の教えを学ぶということではない。ただ一筋に真実を得たいということを念願とする。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は「権力を得たい、金儲けをしたいと言う事で仏道修行をやるべきではない」と書いてございますが、それがお寺の本来の主義みたいですね。

先生
そう。そういうことをしない方がいいと道元禅師は言っておられたけれども、ただ宗教教団が栄えるか栄えないかということに非常に関心を持つ人もいるわけですよ。そうすると、世の中から歓迎されて、寄付金がたくさん集まって、信徒が増えてと言うふうな事が仏道の興隆だという考え方を持つ人もないわけではないと思うんですよね。そういう人は一所懸命そういうことをやったわけですよ。で、その結果、信者が増えた。お寺が増えたということで、仏教教団と言うものが出来上がって、それがまた国家の方でも利用するし、また国家の力を利用して集団がまた大きくなるというふうなことでね。

そういう点では、宗教教団が政治に利用されたり、政治を利用したりということがどの時代にもあるということ、これは確かに歴史的事実ですよね。道元禅師が考えられたのは、そういうことは仏道と関係ないんだと。そんなことはもう超越して、坐禅をしておれば、仏道があるんだし、坐禅をしておる時だけが仏道なんだから、あと、金が儲かった、人に尊敬されたと言う様な事はどうでもいいじゃないかということが、今日のところにも書いてある趣旨ですよね。人に誉められたい思って一所懸命やっておるけれども、誉められようと誉められまいとそんなことはどうでもいいんだ、ということが今日のところには書いてあったわけですよね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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