正法眼蔵 谿声山色 14
道元禅師の説示は続きます。
今までの時間は無駄に過ごしたとしても、現に経験しているこの一生が過ぎてしまわないうちに、急いで念願すべきである。その念願とは「願わくは自分と全ての生き物とが、現在経験している一生を起点として、今後の様々な生涯を通じて常に釈尊の説かれた正しい宇宙秩序を聞きたいものである。 正しい宇宙秩序を聞くにあたっては、正しい宇宙秩序を疑ったり信じないと言う事がない状態でありたい。正しい宇宙秩序に出会ったならば、俗世間的な倫理を離れて仏教的な宇宙秩序を受容し保持しよう。究極においては、大地その他の自然やそこに住まう一切の生物と共に真実を体得するという結果を得たいものである」と。
このように念願するならば、それが自然に正しい発心(真実を知りたいという気持ち)を起こす直接・間接の原因になるだろう。 この様な心の持ち方を粗末にしたり怠ってはならない。 またこの日本の国は、インドから見れば遠く海を隔てた国であり人間の心は甚だ愚かである。昔から今に至るまで聖人の生まれた試しがない。まして釈尊の教えを学ぼうとする誠実な人は少ない。釈尊の説かれた真実の教えを得たいと言う気持ちを持たない人々に、釈尊の教えを示すとその教えが耳に逆らうために、自分の非を省みず、それを示した人を恨むのである。
真実を得たいと言う気持ちを起こし、仏道修行を実際に行い、その願望を持ち続けていく際には、自分のやっていることはなるべく知られない様に努力すべきである。まして自分からそれを口に出して自慢する必要はない。現代の人々は本当の事はどうでもいい、人から誉められるか誉められないかと言う事が気になる。自分の体で実際に実行する事もなく、真実が何かということがわからなくても、「あの人は行いも立派だ、仏道に対する理解も立派だ」と自分を誉めてくれる人を見つけ回っている。この様に実際はどうであるかと言う事を棚上げしてしまって、何とか人に褒められようと思って焦っている事は、迷いの中でさらに迷うと言うことである。この様な間違った考えは早いところ捨て去るがいい。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「昔より聖人も生まれていない」と言われますが、道元禅師がお生まれになる前にすでに日本では、空海上人とか伝教大師、それから親鸞聖人と言う方が出ておられるわけでございますね。道元禅師はそういう方々をどう見ておられたんでしょうか。
先生
道元禅師は、平安時代の弘法大師とか伝教大使とかと言う方々の評価については「正法眼蔵弁道話」の中で、先代の方々、つまり平安朝時代の方々が仏道をどのくらい理解しておられたかというところで、「会せば通じてん」と言われた。理解しておられたら伝えたであろうと。だから弘法大師、あるいは伝教大使と言う方々は、仏教の哲学は伝えられた。哲学は伝えられたけれども、修行法と言うものを純粋な形で伝えられたかどうかということについては疑問を持っておられた。だから100%平安朝の方々を信頼しておられたかどうか、これはわからない。むしろかなり否定的な見解をもっておられてたんじゃないかと思われる。
それから、親鸞上人とはだいたい同時代の人で、親鸞上人と道元禅師が会われたかどうかということ、これは疑問になっておる。会われたという説もあるけれども、その根拠がどこにあるかと言うと必ずしもはっきりしていない。それから、日蓮上人は道元禅師よりもやや年下になります。だから、道元禅師が生きられた時代には日蓮上人はまだそう有名にはなっておられなかった。当時は書物の流布と言う様な事もあまり発達していないし、情報の伝達と言う様な事もそう十分ではなかったから、おそらく親鸞上人、日蓮上人なんかの存在についてはあまりご存じではなかったのが実情じゃないかと思われますがね。
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今までの時間は無駄に過ごしたとしても、現に経験しているこの一生が過ぎてしまわないうちに、急いで念願すべきである。その念願とは「願わくは自分と全ての生き物とが、現在経験している一生を起点として、今後の様々な生涯を通じて常に釈尊の説かれた正しい宇宙秩序を聞きたいものである。 正しい宇宙秩序を聞くにあたっては、正しい宇宙秩序を疑ったり信じないと言う事がない状態でありたい。正しい宇宙秩序に出会ったならば、俗世間的な倫理を離れて仏教的な宇宙秩序を受容し保持しよう。究極においては、大地その他の自然やそこに住まう一切の生物と共に真実を体得するという結果を得たいものである」と。
このように念願するならば、それが自然に正しい発心(真実を知りたいという気持ち)を起こす直接・間接の原因になるだろう。 この様な心の持ち方を粗末にしたり怠ってはならない。 またこの日本の国は、インドから見れば遠く海を隔てた国であり人間の心は甚だ愚かである。昔から今に至るまで聖人の生まれた試しがない。まして釈尊の教えを学ぼうとする誠実な人は少ない。釈尊の説かれた真実の教えを得たいと言う気持ちを持たない人々に、釈尊の教えを示すとその教えが耳に逆らうために、自分の非を省みず、それを示した人を恨むのである。
真実を得たいと言う気持ちを起こし、仏道修行を実際に行い、その願望を持ち続けていく際には、自分のやっていることはなるべく知られない様に努力すべきである。まして自分からそれを口に出して自慢する必要はない。現代の人々は本当の事はどうでもいい、人から誉められるか誉められないかと言う事が気になる。自分の体で実際に実行する事もなく、真実が何かということがわからなくても、「あの人は行いも立派だ、仏道に対する理解も立派だ」と自分を誉めてくれる人を見つけ回っている。この様に実際はどうであるかと言う事を棚上げしてしまって、何とか人に褒められようと思って焦っている事は、迷いの中でさらに迷うと言うことである。この様な間違った考えは早いところ捨て去るがいい。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「昔より聖人も生まれていない」と言われますが、道元禅師がお生まれになる前にすでに日本では、空海上人とか伝教大師、それから親鸞聖人と言う方が出ておられるわけでございますね。道元禅師はそういう方々をどう見ておられたんでしょうか。
先生
道元禅師は、平安時代の弘法大師とか伝教大使とかと言う方々の評価については「正法眼蔵弁道話」の中で、先代の方々、つまり平安朝時代の方々が仏道をどのくらい理解しておられたかというところで、「会せば通じてん」と言われた。理解しておられたら伝えたであろうと。だから弘法大師、あるいは伝教大使と言う方々は、仏教の哲学は伝えられた。哲学は伝えられたけれども、修行法と言うものを純粋な形で伝えられたかどうかということについては疑問を持っておられた。だから100%平安朝の方々を信頼しておられたかどうか、これはわからない。むしろかなり否定的な見解をもっておられてたんじゃないかと思われる。
それから、親鸞上人とはだいたい同時代の人で、親鸞上人と道元禅師が会われたかどうかということ、これは疑問になっておる。会われたという説もあるけれども、その根拠がどこにあるかと言うと必ずしもはっきりしていない。それから、日蓮上人は道元禅師よりもやや年下になります。だから、道元禅師が生きられた時代には日蓮上人はまだそう有名にはなっておられなかった。当時は書物の流布と言う様な事もあまり発達していないし、情報の伝達と言う様な事もそう十分ではなかったから、おそらく親鸞上人、日蓮上人なんかの存在についてはあまりご存じではなかったのが実情じゃないかと思われますがね。
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