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正法眼蔵 谿声山色 13

道元禅師の説示は続きます。

多くの人は、せっかく人間としての生命を得ておりながら、釈尊の説かれた宇宙の秩序を何としても得たいと言う気持だけで一所懸命努力すると言う事がない。だから、本当の釈尊の教えである坐禅に出会っても、はたして価値があるのか、はたして効果があるのかと言う疑念を持ち、釈尊の教えそのものである坐禅をやらないと言う結果になる。

自分の体や心が釈尊の説かれた教えに従って生きているという事は、自然に生きるということ、健康な状態で生きるということ。ところが、坐禅を怪しむ人々は、あるべき当然の状態に従って生きると言う事をやらないから、この宇宙を支配しているもの(法=ダールマ)と合致しない。そして、そうした秩序をわが身に受け取ってそれを使いこなす事をやらない。代々の仏道修行者は、師匠から弟子へ法を伝えて非常に長年の歳月を経た。しかしながら、今日ではそういう状態というものが衰えて、本当の事を知りたいという気持ちを起こせと言って見ても、それは昔の夢を説いているように感じられ、あまり人の関心を呼ばない。

せっかく仏道という宝の山の中に生まれながら、その宝を知らず見ずにいるということは哀れな事である。仏道を知らず仏道を見ることもなく、まして自分自身が坐禅と言う仏道修行をして釈尊の説かれた教えを身につけるということは到底あり得ない。もし人が本当のことを知りたいという気持ちを起こしてのち、六趣・四生と言う生き方の中に入り込んでしまい、次から次へそうした境涯を経験していかざるを得ないような状態でも、そういう境遇の中で味わったところの直接の原因・間接の原因がすべて、真実を得るための行為となり願いとなるのである。今までの時間は無駄に過ごしてしまったということがあったとしても、今の時間というものが過ぎないうちに急いで真実を得たいという願を立てるべきである。

※西嶋先生解説
六趣(六道と同じ意味)。地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人間・天上。これは我々人間が普通の状態でいつも経過していく六つの状態ということ。地獄と言うのは、自分でやりたいと思うことがどうにも実現できないという苦しみの状態。餓鬼と言うのは、あれが欲しい、これが欲しいと言って焦る状態。畜生と言うのは、自分の欲しいものを何とかして得ようとして、はたの迷惑も構わず人を傷つけることも自分を傷つけることも構わずに、とにかく欲しいものを得ようとする状態。それから狂暴が少しおさまって人並みになってくるのが人間の状態。ところが人並みになると、人間はすぐ自惚れて、自分は神様ではなかろうかと言うふうに思い違いをするから、天上の人となって、自惚れが原因でまた地獄の苦しみを味わう。

四生(胎・卵・湿・化という四つの生まれ方)。と言うのは、人間の様に母親の胎内で育って生まれる生まれ方。と言うのは、卵、これは魚とか鳥とか卵で生まれる。湿と言うのは、湿気から生まれて来る―古代のインド人は、動物学的な知識は今日ほど十分でなかったから、湿気が様々の生命を生むと考えておったし、と言うのは「化ける」と言う字で、化成、つまり変化、人間の頭では考えられないような形で生まれて来るもの、そういう四つの生まれ方を四生と言う。

※私の独り言。
今日は先生の祥月命日です。二年前、通夜が終わって先生のお顔をしっかり見てお別れしました。ある時先生から、先生が講義の時に使っていた「現代語訳正法眼蔵」を全巻いただきました。しおりが挟んであったり資料が挟んであったり先生を感じながらブログを書いてます。西嶋先生本当にありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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