トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 谿声山色 12

道元禅師の説示は続きます。

釈尊、迦葉尊者、達磨大師、慧可大師、その他多くの真実を得られた方々は、いずれも宇宙の秩序を求めると言う点では心意気の深大な先人であり、哲人であり、その過去における行跡は現代の人々といえども必ず学んでみなければならないところである。現代の人でも、名誉や利得というものにあまり関心を持たず、本当の事を知りたいということの念に燃えている人々は、このような心意気を起こすべきである。インドの国から遠く離れたこの日本における最近の人々は、釈尊の説かれた宇宙の秩序を求めて努力する人が非常に稀である。まったくいないというわけではないが、中々めぐりあえないのである。

たまたま家庭生活を脱け出して、俗世間を離れたような外見はしているけれども、釈尊の教えを学ぶということが、名誉や利得を得るための手段としている人ばかりが多い。せっかく出家しておりながら、仏道を求めるよりは名誉や利得を求めるという状態は哀れな事であり悲しいことである。この様な人々は一体いつになったら俗世間を離れて真実を得るという事があろう。

出家をした身でありながら、仏道を求めるよりも名誉や利得を求めている人々は、せっかく正しい師匠に出会ったとしても、その師匠の教えにしたがって真龍(坐禅)を愛するということがないであろう。この様な人を過去の先輩方は哀れむべ人々と言われた。これは過去において、坐禅を好きになれない様な原因が積み重なっているから、そういう結果になるに他ならない。

※西嶋先生解説
真龍と言うのは本当の龍と言う意味で、坐禅を指すわけ。なぜ坐禅を指すかと言うと、昔、中国に葉公と言う人がいて、龍の絵や彫刻を大事にしていた。そこで本物の龍が、「葉公と言う男は関心なやつだ。わしの絵や彫刻を大事にしておるから、本物が行ったらさぞかし喜ぶだろう」とある日、本物の龍が葉公の家の周りを取り巻いたところが、葉公は本物の龍を見てびっくりして気絶してしまった。

なぜそれを坐禅の事にたとえるかと言うと、坐禅と言うのは仏道の本物。ところが人間と言うものは案外本物は嫌いなんです。文章にいろんな名僧や知識の事が書いてあると、「いやあ、仏教と言うのはよろしいなあ」と言うことで感心する。あるいはお寺に行って、実に建物がきれいだとか、お線香の匂いがいいとか、お経を読んでる時の声がとてもたまらんとか、いろんなことを言うわけだけれども、「さあ、坐禅をやりましょう」と言うと、「いやあ、それはちょっと勘弁してくれ」と言う人が多い。

ここへ集まっておられる方は、幸いにして真龍(坐禅)と先ほどまで仲良くなっておったわけで、その点では坐禅を愛する人々であるけれども、普通はそうはいかない。「仏道、坐禅、ああ結構ですなあ」と言う話になる。名僧を呼んできて、仏教の話を聞いて、「ウワァ、素晴らしいなあ」と言う様なところまではいくんだけれども、「さあ、坐禅をやりましょう」と言うと、「いやあ、ちよっと勘弁してください」「そのうちやりますから」「暇がありませんから」というふうな事で、だいたいはやらないという場合が多い。



          ― 西嶋先生の話―
      
坐禅によって何をやるかといえば、間違った考え方から脱け出す。 坐禅によって何をやるかといえば、感覚的なとらわれから脱け出す。日常生活において、悩んだり苦しんだりしますが、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしていると、悩みと 言うものが起きてこない。 どこかへ言ってしまう。 そのことが「坐禅」と言うものの意味です。

日常生活において、美味しいものを食べたり、きれいなものを見たり、きれいな音楽を聴いたりということで感覚的に色々な楽しみというものがある。 そういう楽しみは結構な事であるが、それにとらわれ過ぎてしまうと人間が弱くなる。 人間が誤りに陥りやすくなる。 だから、そう言うとらわれから脱け出すのに坐禅がある。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
501:暇がありませんから by 阿佐谷北 on 2016/01/28 at 10:40:08 (コメント編集)

あるご老人に坐禅のことをお話したことがあります。その方はヨーガの経験があり、仏教を信仰している方で、大変関心をもってくださいました。そこで坐禅をお勧めしたのですが、「暇がありませんから」と拒否されました。今はイス坐禅というのもあるので(自分が通っているお寺)、そうハードルは高くないということも申し上げたのですが、やはり「暇がありませんから」というお答えでした。お寺が主催という点が引っかかったのかもしれませんが、坐禅の実践というと、何か人の心を頑なにするものがあるようなのです。これについて何かコメントございますでしょうか。

502:Re: 暇がありませんから by 幽村芳春 on 2016/01/28 at 15:21:31

阿佐谷北さん、コメントありがとうございます。

私たちは「坐禅のやり方を教えてください」と言われることがたまにあります。自宅の坐禅堂(勝手にそう呼んでいます)に案内して、一通り説明し実際に坐禅をやっていただきます。そして必ずいう事は「もしも坐禅が続かなくても、それはまだ坐禅をする必要がない状態だと思います。だから坐禅が続かないからと言って教えた(私と夫)に気を使わないでくださいね」と必ず言うようにしています。

坐禅の実践というと、何か人の心を頑なにするものがあるようなのです。について
「坐禅を実際に始めるということは、この世の一切のものに絶対の権威を認めることのできなくなった具眼の士が、最後に残された唯一の拠り所として求めるものが坐禅である」と西嶋先生は言われています。頑なにするものは、まだ坐禅を求める必要がないほど呑気に過ごせているからではないでしょうか。

503:Re:Re: 暇がありませんから by 阿佐谷北 on 2016/01/28 at 22:56:12 (コメント編集)

ご回答有り難うございます。

坐禅の実践については、あまり他者に勧めないほうが良いとお考えですか?

仏教書やその類書から言葉をひいてきて、座右の銘にしているような方はたくさんいらっしゃるかと思います。先のご老人はそんな方でした。もう一歩足を進めては如何かと思って、坐禅をお勧めしたつもりだったのですが…。出過ぎた行為だったでしょうか。無理強いしたつもりはありません。ご意見を伺いたいです。

504:Re: Re:Re: 暇がありませんから by 幽村芳春 on 2016/01/28 at 23:49:29

阿佐谷北さん、こんばんは。

坐禅の実践については、あまり他者に勧めないほうが良いとお考えですか?についてですが、
坐禅を勧めることは出過ぎた行為ではないと思います。やるかやらないかは相手の問題ですから・・・。
実際に毎日坐禅をして穏やかに暮らしていると、ついつい坐禅を人に勧めたくなりますよね。やらなければ坐禅の良さはわかりませんから。
坐禅を始められない人は、仏教の本を読んだり高名なお坊さんの話を聞いたりすると、仏教がわかると思っているのでしょうかね、そんなことをしなくても釈尊と同じ姿になって坐禅をすればよいと思うから勧めるんですよね。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-