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正法眼蔵 谿声山色 10

広照大師慧覚和尚と教家(経典を中心に仏教を勉強していく人々)の講師である子璿との問答です。

広照大師慧覚和尚は南獄懐譲禅師の遠い弟子であった。ある時、教家の講師である子璿と言う人が慧覚和尚に質問した。「仏教の教えの中では、この我々の住んでいる世界は、すべて清く本来の姿を呈していると言われているにもかかわらず、どうして山があり、河があり、大地があるのか」と。その質問に対して慧覚和尚が返事をしていうには、「すべて清く本来の姿をしているものが、どうして山を生んだり、河を生んだり、大地を生んだりすることがあり得よう」と。

道元禅師の注釈です。
我々の住んでいるところの周囲を取り巻いている山や河や大地と言うものは、本来清い存在であって、わざわざ山、河、大地と言う様な名前をつけて縛り付ける必要はない。しかしながら、経典を中心にして仏教を勉強していく人々は、その事情というものを、かつて夢にさえ聞いた事がないから、山や河や大地と言うものを名前をつけて抽象的に捉えるだけで、その本質というものに立ち入って、具体的な現実の体験として、山や河や大地を学んでいないのに他ならない。



              ―西嶋先生の話―

釈尊の四諦の教えは、仏教の大切な考え方として何回も説かれています。「諦」は訓で読むと「あきらめる」です。「あきらめる」は断念すると言う意味ではなくて、はっきりさせ明らかにすると言う意味です。仏教ではこの世の中を考えていく場合に四段階の考え方でいくべきだという主張があるわけであります。それが四諦論の意味です。

1・苦諦の考え方。人間が誰でも最初に持つ考え方で、ああしたい、こうしたい、ああしなければならないと言う、理想や願望を基準とした考え方。その結果理想に燃えて一所懸命やると、現実にぶつかって傷つく。
 
2・集諦の考え方。この世の中は物質的な物の集まりだ。原子とか分子とかという、細かい微粒子の集まりで出来上がっている。原因結果の関係の集積に縛られている。人間が良心的に一所懸命に努力すると言う事よりも、現実がどうなっているかと言う現実そのものを見るという点では優れているけれども、人間の努力と言うものにあまり信頼を置かない結果、どうせ駄目だからと言ってあきらめると、生きている張り合いがなくなってしまう。

3・滅諦の考え方。釈尊は、苦諦・集諦の考え方では人間は幸福を感じ得ないと言う事に気ずかれた。理想を追求しながら、しかも現実と調和して行く生き方がどこかにないかと修行し苦心された。その結果、釈尊が説かれた事は、モノを考えると言う事や物質的に色々なものを受け入れると言う事よりも、人間が生きがいを感じ人生に意味をもたらすものは、何をするかと言う事、どういう行動をするかと言う事が大切だということに気ずかれた。

4・道諦の考え方。行動はそれがまずければ、自分自身が被害をうける。また人に被害を与えると言う事もある。実際に行動するという事は簡単なようで難しい。実際に日常生活で積極的に行動しながら、しかも自分が傷つかないで、他人にも傷を与えないと言う生き方はどうしたらいいのかと言う問題になる。釈尊が説かれた事は、人間が本来の状態に立ち返ったところでやる行動は、自分自身をも傷つけないし人にも迷惑を与えないと言う事。

それはなぜかというと、我々は法と言う現実の世界の中にいきている。だからその法の世界を支配している原則を自分自身が身につけて、その原則に従って生きるならば、自分も満足するし人にも迷惑をかけないで、自分にも他人にも幸福を与える事が出来る。釈尊は、人間が幸福になるためには、自分の本来の状態に戻らなければならないと言う事を悟られて、その自分の本来の状態に戻る修行法として、坐禅と言う事を考えられた。


読んでいただきありがとうございます。


    
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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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