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正法眼蔵 谿声山色 9

長沙景岑禅師とある僧の問答です。

長沙景岑禅師にある僧が質問した。「自然(山河大地)というものを、自分に従わせるには、どうしたらいいでしょうか」と。長沙景岑禅師言う。「自分を自然(山川大地)に従わせるには、どうしたらよかろう」と。

道元禅師の注釈です。
長沙景岑禅師のこの言葉は、自分自身と言うものは自分自身以外の何ものでもない。だから自分自身と自然というものが一体のものだと捉えたとしても、自分と自然との関係は、どちらが主でどちらが従というふうな関係ではない。まったく自然と自分とは同じものだ、と言う事を説かれたに過ぎない。



          ―西嶋先生の話―

非常に単純な事を言うようであるけれども、仏道と言うのは背骨を正しく保つ事といっても間違いではない。したがって我々は坐禅によって何をやっておるかと言えば、背骨を正しく保っておる。背骨を正しく保っておるということが我々の気持ちを落ち着け、我々の消化作用を順調にさせ、あるいは血液の循環を順調にさせ、神経を順調にさせるということで、健康と密接な関係がある。

健康であれば、我々は非常に明るい気持ちで生活することが出来る。体の調子が悪いと、腹を立てなくてもいい時に腹を立てたり、悲観しなくてもいいことを悲観してみたり、気持ちの上でも非常に動揺する。体の調子がいいと、うきうきとして楽しくて、人生と言うのは何でこんなに楽しんだろうと思うくらい楽しいということもあり得る。

その原因と言うのは、背骨を正しく保つということ。したがって背骨を正しく保つということを坐禅を通じて絶えずやっていれば、我々は目先何をやらなきゃならんかということが、理屈ではなしに、本能的にわかるわけ。その本能的にわかったやらなきゃならないことをコツコツと一所懸命やる、それが人生。それ以外に最高の人生と言うものはない。極めて普通のやらなければならないことをコツコツとやるというのが最高の人生。それが十年、二十年と積み重なってくと、その人その人にとって最高の人生というものが自然に形づけられる。

ところが、現代はこういう思想と言うのはあまり流行らない。今日の主流の思想ということは言えない。だから新聞でも雑誌でも、人目に付く変わったことがたくさん書いてある。博打をやって三億円損したとか、あるいは子供を殺してしまったとか、様々な出来事、変わった出来事、普通ではなかなかお目にかかれないような出来事が新聞や雑誌をにぎわしておる。またそういう変わった事でないとニュ-スにならないから、新聞記者も一所懸命そういう変わった事を見つけて書き立てる。

ただ、そういう変わった事と言うのは、珍しいというだけであってあまり価値はない。我々の生活において、我々の社会の活動において、一番価値のあるのは、ごく普通の事をコツコツとキチットやれるということに尽きる。そういう点では、その基本が背骨を正しく保つということにある、ということが釈尊の教え。そのために坐禅をやると言う、非常に単純な原理に尽きる。それ以外に仏道はないと言っても間違いではない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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