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正法眼蔵 谿声山色 5

蘇東坡居士の説話について道元禅師の注釈は続きます。

この蘇東坡居士を例にとってみれば、蘇東坡居士がこの偈(詩)をつくって常総禅師に奉る以前は、それまで季節を何回となく経過してきたのではあるけれども、山や川の自然を本当の意味では見聞きしていなかったのである。またこの偈(詩)をつくった一夜の中に見聞きした山の姿や谷川の音も僅かなものに過ぎない。そこで今日において仏道を学ぼうとしている人々は、自然は相対的な流動の世界であるから、山は流れる、水は流れないという思想もあると言うところから、その流動の世界を最初のよりどころとして仏道を勉強していくということが一つの方法である。

この蘇東坡居士が真実を体得した夜は、その前日に常総禅師と無常説法(心理作用を持たないものも説法する)と言う説話について問答を交わしたのである。その時はまだ常総禅師の言葉を聞いて、直ちに「ああ、真実がわかった」いう境地には達していなかった。翌日、蘇東坡居士は谷川の水音を聞いている時に、水に逆らう波が高く天を打つ様な勢いで真実を体得したのである。蘇東坡居士が真実を体得したのは、谷川の水音によるものなのか、常総禅師の教訓の余波によるものなのか断定するのは難しい。

いろいろ考えてみると、常総禅師の心理作用を持たないものも説法すると言う説話の余韻がまだ蘇東坡居士の耳に残っていて、こっそりと谷川の夜の水音に紛れ込んでいて、それが蘇東坡居士に聞こえたのではなかろうか。その点では、この谷川の水音はほんの僅かなものだという捉え方だけが正しいということであろうか、また一つの海全体という非常に大きなものであったという捉え方だけが正しいと言い切れるであろうか。さらに究極の問題として考えてみるならば、蘇東坡居士が真実を体得したと言う事なのか。それとも、自然の山水そのものが真実を体得したと言うべきなのであろうか。この問題について、どんなに物事を判断する力がある人であろうとも、谷川の水の音が釈尊の声であり、山の姿が釈尊の肉体であると言う事に眼を向けて、一所懸命勉強しようという態度にならないでいられようか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生、大変俗な事をお伺いするんですけど、友達は選んだ方がいいとか選ばなきゃなんないということは、仏道にはありますか。なんだか「あなたは頑固ね」と言われちゃうんですよ。あの人は嫌だ、この人は嫌だって。(笑)

先生
それでね、あんまり好き嫌いが多いことはやっぱりある意味避けなきゃならんことだと思いますよ。というのは、全体をありのままにそれでいいんだという見方になりますと、あれがいい、これがいいという事はなくなるという事はあると思うんですね。だからその点では、「清濁併せ呑む」というふうな生き方もあると同時に、必要だということはあると思いますね。だからその点では両方が含まれていると思います。友達を選ばなきゃならんと言う教えと、それから清濁併せ呑むというのと両方が必要だという事があると思いますよ。

そうすると「どうも矛盾しているんじゃないか」と言う問題になるんですけれども、現実の我々の日常生活と言うのは、そういう両方の要素を多分に含んでいる。片一方だけではどうも整理がつかんと言う問題、これはあると思いますね。現実とはそういうもんだと。現実と言うのは、両方の極があって、その矛盾の中にあるという見方がどうもあたっておるんじゃないかと言う気がしますね。

だからその点では、片っ方だけの教えで全部割り切るという考え方は割合少ないですね、仏教には。そういう点では、普通の人は「どうも仏教はどっちいってんだかよくわからない、中途半端で難しい」と言う批評が出てくるわけですけれども、現実そのものが中途半端で難しいんですね。だから現実の社会を割り切るためには、中途半端で割り切れない理論がなければならんということになると思いますね。

※私の独り言。
カテゴリ11「山水経」の巻も、カテゴリ48「無常説法」の巻もこれからです。一巻終わるごとに次の巻が待ち遠しくて・・・。


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コメント
499:谿声山色 by 正田寿男 on 2016/01/20 at 00:22:23

谿声山色で学んでいることは、
「自然はいつでもあまねく人々に平等に対しているよ。だから自身の状態もあまねく自然に平等に対するようにしたら、きっと谷川の水の音が釈尊の声になり、山の姿が釈尊の肉体になるよ。」
ということです。
そして、坐禅をすることでバランスのとれた平等な精神状態を実感し、坐禅を継続することでその状態を日常にも容易に作り出すことができるよ。
こんなふうに学びました。

500:Re: 谿声山色 by 幽村芳春 on 2016/01/20 at 21:49:01

正田さん、コメントありがとうございます。

「今日においても仏道を学ぼうとする人々は、山は流れる、水は流れないということを契機にして、真実を学び真実の世界に入るということを行うべきだ」と道元禅師は言われます。常識的には山は動かず、水は流れるですよね。
坐禅を毎日して「正法眼蔵」を読むと、道元禅師の言われることはよくわかりますよね。
お互い、これからも坐禅をしながら「正法眼蔵」を学んでいきましょう。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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