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正法眼蔵 谿声山色 4

蘇東坡居士の説話について道元禅師の注釈です。

蘇東坡居士は過去にしばしば山や川に出かけていたにもかかわらず、釈尊の声を聞き釈尊の姿を拝し得なかった事は、釈尊が自ら出現して宇宙の秩序を説かれる教化の儀式に列席出来なかった様なもので甚だ残念な事である。今ことさらに蘇東坡居士が山の姿を見、さらに谷川の水音の中に釈尊の言葉を聞いたのはなぜであろうか。その聞いた内容も山や川の言っている真実と言うものが、たった一つの言葉と言ったらいいのか、あるいは半分の言葉と言ったらいいのか、あるいは八万四千と言う無数の偈(詩)を語っていると言ったらいいのか。聞くほうの態度によって様々である。

山や川と言う自然には釈尊の声や姿が隠されているけれども、それが人によっては見えない場合があり、聞こえない場合があるということは大変残念なことである。また、たまたまそういうものを見聞きする時期、あるいは場所に巡り合うことが出来れば、山は真実を語り、水は真実を語るという非常に喜ばしいこともある。谷川の水は人間がいようといまいと、止まることなく常にド-ド-と音を立てて真実を語っている。山の姿も常時、我々の目の前にあって出たり消えたりということはない。

自然と人間との関係からするならば、谷川の水の音が確かに聞こえているけれども、その本当の素晴らしさと言うものが人間にわかる場合もあれば、わからない場合もある。しかしながら、自然が我々の眼に見えている時が我々に身近だと言えるのであろうか、我々の眼に見えない時が我々に身近だと言えるのであろうか。自然はすべて完全に露呈しているのであろうか、半分を隠しているのであろうか。
                           つづく--



          ―西嶋先生にある人が質問した―
           
質問
「みずから規矩を立する事なかれ」と言う言葉がありますが、私は今、理事会の役員をしているのですが、どうしても自分の考えを基準にやりますし、ある程度人に押し付けてというきらいがあるのですが・・・。

先生
これは、自分の考え方をもつ事が悪いと言うのではなく、人の考えを聞くという事はかなり大事な事です。相手がどう思っているか聞いて、そう言う考え方もあるのかと言う事で相手の考え方と自分の考え方とを突き合わせて見て、そこにだいたい誰でも納得するような線が出て来ると言う場合が多いです。ところが、自分の考え方に自信を持っている人はそう言う事をしない。他人の言う事は全部間違いで、自分の言う事だけが正しいと思うから「これが正しい、これが正しい」と言って押し付ける。
 
しかし、他の人も同じ様な態度だから意見が分かれて話がまとまらないと言う例が非常に多いと思います。だから相手の考えている事を聞く態度が社会一般に広がっていくと、この世の中はもっと丸くなり和になると思います。今どきの考え方は、人よりもちょっと違ったいい意見を出して認められたいと言う気持ちが強いから、自分独特の意見を出して人に褒めてもらおうと言う考え方が強いですね。ただこれだと、全体の考え方が中々まとまらないと言う事情があると思います。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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