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正法眼蔵 礼拝得髄 22

道元禅師の説示は続きます。

また釈尊の弟子の位と言うものは、それが仏になる前の人として仏道修行をしている菩薩の場合であれ、理論を通して仏教を勉強しようとしている声聞の場合であれ区別なく、第一が僧侶、第二が尼僧、第三が在家の男子、第四が在家の女子と決まっている。これは非常に長い期間にわたって伝承されてきた。釈尊の弟子の第二の位にある尼僧は古代インドにおける転輪聖王よりも優れているし、古代インドにおいて信じられていた帝釈天よりも勝っている。この尼僧の入ってはならない場所のあるはずがない。

まして、日本の国における国王や大臣は、釈尊の教団における第二の位にある尼僧とでは比べものにならない。しかも今日、日本の国において尼僧が入ってはいけないという修行の場所を観察して見ると、農夫や木こり等が何の制限もなしに入っている。まして国王や大臣、諸役人等、そういう人々は誰が入らないということがあろう。農夫らと尼僧とを比較した場合、仏道修行における状況、地位をどの程度得たかということを考えてみるに、どちらが優れているかということは非常にはっきりしている。

俗世間の考え方を基準にして論じてみても、仏教的な考え方を基準にして論じてみても、尼僧が入っていい場所であっても、農夫が押し入るということが出来ない場所もあるはずである。農夫が自由に入れるところに尼僧が入れないということは、甚だしい誤りであって、日本のような小さい国において初めてこのようなことが行われている。我々の住んでいる全世界(欲界・色界・無色界)における慈悲深い父とも言うべき釈尊の弟子の尼僧が日本と言う小国に来た場合には、行く手を遮られて入れないところがあるということは悲しむべきことである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
女性観について道元禅師は平等に考えているとおっしゃって、女性で偉い尼僧を重んじるとおっしゃっていますね。それですけど、今の世の中で考えてみますと、先生は女性観をどう思っていらっしゃるか…(笑い)ということは、私にちょっと言わせていただきますと、いろんな関係で女性は偉くなれないんですよ。偉くって言っちゃかっこ悪いけれども、勉強や何かできないんです。それだのに、おんなじに学問だのそういうことで男の人と競争しようということは、境遇を同じ様にしてくれれば出来ますよね。

だけど、女には女の特別のそれこそ尊い、子供を産んだり育てたり、それも大事なことだと・・・。だから私は女にはすごい価値があるんだと、自分が女だからそう思っていますけど、そういうことを考えないでスラ-ッと見ると、確かに世の中には男の方が地位の高い人も多いし、私も偉い女性たちをずいぶん知っていますけど、たいてい家庭を持っていませんね。たとえば大学の総長とか、環太平洋会議の議長をやっている一派の人たち、そういう人たちの中には家庭も子供も持ってない人が多いです。そういう人たちは男の人と対等に仕事をし負けないと思うんです。だけども中には、女の方が頭が悪いんだという面もあるんでございましょうね。だからこんなに上に上がっていかれないんでございましょうか。

先生
いや、これは役割分担の違いだと思います。だから女性には女性の役割があるし、男子には男性の役割があって、役割が違うから、同じ世界で競争して、どっちが上、どっちが下だと言うんじゃなくて、分担が違うということだと思うんです。で、分担の違うそれぞれの世界での価値は全く違わない、おんなじだと。男女の平等はそういう事だと思います。

だから、先ほど言われた子供を産んで育てるなんて言うこと、これは男にはできないことですよ。だからそういう点では、社会を形成する上において重要な仕事をしておる。男は外へ出て働くということで、喧嘩をしたり、血みどろになって戦って一所懸命やるわけだから(笑)。それは役割の違いだということだと思いますよ。私はそう思っている。

質問
それだったら、それで比較しちゃいけませんね。

先生
そうそう。だからそういう点では役割が違うんだから、それぞれの分野で絶対の価値を持っているんだという風な見方で考えるべきじゃないかと私は思いますがね。

質問
要は、仏道修行の同じ環境にあっての平等ということでしょうね。

先生
ええ。だから仏道修行の問題に限れば、妙信尼の様に、十七人の僧侶に「お前たち、だめだ」と言って、しかも十七人の僧侶が一所懸命教えを請うて「はい、わかりました」と言って、おとなしく国に帰っていったという境地にもなり得るということが、例として出てるわけですよね。

質問
仏道に限ってということではないわけですね。

先生
ええ。仏道修行の点に限れば、この巻に述べられたような話になるわけですが、ただ世間一般の男女と言うものを考えれば役割の違いだと。

質問
だから、僧堂に女の人を入れないでしょう。そういう習慣があるから偉い尼僧が少ししかでないんですよ(笑)

先生
ただね、私なんかの見た範囲で、坐禅は女性の僧侶の方がよくやっているんじゃないかな。沢木老師がよくいかれた新潟県の小出に尼僧院があるんですよね。そこの尼さんなんかは相当良く坐禅をやっていると思ったな。だから仏道修行から言えば、坐禅をやるかやらないかで価値が決まるんだから、大寺院の住職でも坐禅をやらなきや三文の値打ちもないという事をはっきり言っていいと思う。それと同時に小さな寺院に住んでおっても一所懸命毎日坐禅をやっていれば、最高の善知識ですよ。

そういう点では仏道の価値の基準と言うのは非常にはっきりしていると思う。世間はそう見ないですよね。大寺院の住職だと、金襴の真っ赤なお袈裟を着て出てくれば「ワァ-ッ」と言う様な事でお辞儀して出て来るけれども、(笑)その点では、誰が偉くて誰が偉くないのかは、これはなかなか難しい問題でね。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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