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正法眼蔵 礼拝得髄 21

道元禅師の説示は続きます。

釈尊が生きておられた時代の釈尊の教団においては、いずれも僧侶、尼僧、在家の男子、在家の女子と言う四種類の人々がいた。そのほか釈尊の説法を聴くために集まった無数の種類の人々がいた。これらのたくさんの種類の人々がいずれも釈尊の教団の一部であったということは紛れもない事実である。釈尊が結成された教団で、尼僧のいなかった教団があろうか。我々は釈尊の生きておられた時代の仏教教団の様にあるべきで、結界などと言うものを願ってはならない。なぜならば、その様な結界は滑稽の世界にすぎないからである。

釈尊の指導された教団のあり方とは、この我々の住んでいる世界であろうと、それ以外の世界であろうと、あるいは過去現在未来にわたって様々な真実を体得された方々によって結成された教団であろうといずれも相違している事がない。釈尊の教団と異なったあり方の教団は、釈尊の教団とは別だと考えるべきである。大乗でも小乗でも阿羅漢の地位は最高の地位であり、その内容に違いはない。尼僧の中にはこれらの阿羅漢の境涯を実際に自分のものにした人が多い。これらの尼僧は全宇宙のどこにでも行き得るのである。誰がその行為を止める事が出来よう。女性でありながらすでに仏になった人もいる。だれが真実を究めたこの女性をじゃまして、「この場所には入ってはいけない、あの場所には入ってはいけない」と言う事が言い得よう。

その尼僧にはすでに一切の方角を照らすだけの力量があるのであるから、あそこの場所はだめ、ここの場所はだめと言う様な境界線を設けても何の役にも立たない。すでに過去・現在・未来の釈尊の指導される教団に参加し、釈尊と同じ場所で学んでいる尼僧を遮る何があろう。このような尼僧に対し入ることを拒んでいる結界と称するものは、釈尊の指導された教団とはやり方が違うであろう。釈尊の定められた教えだと誰が信じるであろう。これはただ世間の人々を惑わすところのきわめて愚かな人々であり、それは野生の動物が、自分の住む洞穴を人間に奪われまいとして、人が来るのを防ぐという事と少しも変わらない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
四果(仏道修行の最後の段階で得られる成果)を証した人を阿羅漢と呼びますね。その阿羅漢と言うのは、たとえば声聞の人も阿羅漢と・・・。

先生
ええ、一般にそう言われています。

質問
なんか我々が見ると、菩薩とか仏子とかからは下がっちゃうような感じがするんですが、これで見れば阿羅漢と言うのは大変立派な事ですね。

先生
そうです。それで「正法眼蔵」には阿羅漢の巻と言うのがあるんです。その阿羅漢の巻においては阿羅漢は仏道の究極だということが非常にはっきり書いてありますね。一般の理解では、阿羅漢と言うのは声聞衆の最高の位だから、菩薩、仏に比べると落ちるんだという解釈が一般なんですが、道元禅師はそういう考え方をしておられないですね。

質問
五百羅漢と言うと、変な顔をして変な恰好してますね、それであれは小乗の世界かと・・・。違いますんですね。

先生
ええ一般にはそう理解されていますけれども、道元禅師は「阿羅漢」の巻では、とにかく行いが整えばいいんだという考え方ですね。だから戒律を一所懸命守って、とにかく戒律から外れなくなれば、そういう生き方でも仏道の究極にはいけるんだと。だからそういう境地に達した者は、仏道の最高のものに達したと見ていいということを言っておられますよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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