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正法眼蔵 礼拝得髄 20

道元禅師の説示は続きます。

また日本の国に一つの滑稽な事がある。それは世間で、ある場合には結界(一つの地域を定めて、そこは神聖な場所と定められた所)の境界内と言い、ある場合には大乗仏教の修行の道場というふうに言って、尼僧や一般の女性をそこに入れないと言う習慣がある。この様な誤った習慣が長年にわたって伝えられている結果、それが誤りだということを判断することが出来ないでいる。昔の事をよく勉強した人も、その誤った風習を改めようとしないし、真実の道に通達したと言われている様な人々でも、その風習がいい事か悪い事かさえ考えてみることがない。

ある場合には、権威のある人がやった事だと言い、あるいは過去における先輩方が残したやり方だと言って、少しもその事が良いか悪いかを論議しようとしないことは、滑稽なために笑いが止まらなくてはらわたが千切れてしまうほどのおかしな問題である。権威者とはいったい誰の事を言うのであろうか。それは賢人をいうのか聖人を言うのか。それとも鬼神のようなものを言うのか、または菩薩の修行過程である者を言うのか、菩薩の最高の境地とそれに次ぐ境地の者を言うのか、権威のある者とは一向にわからない。

そしてまた彼らが言うように、古い仕来たりを変えないことがよいとされるのであれば、我々の日常生活がソワソワと落ち着きなく明け暮れていくのを、いつまでもそのままにしておく事が必要なのかどうか。まして偉大なる師匠である釈尊は、最高にして正しい均衡のとれた真実を得られた方であり、解明しなければならない問題についてはすべて解明していたし、実際に実行しなければならない問題はすべて実行しておられた。また超越、脱却しなければらない問題は、いずれも超越、脱却しておられた。現在のだれが釈尊と同じ様な境地に及ぶと言うふうな事があろう。

※西嶋先生の話
鎌倉時代においても依然として、たとえば高野山のようなところは女性を入れなかった。それからそのほか大峰山というふうなところ。当時の有名な寺院と言うものは大体女性を入れないというしきたりが非常に多かった。その風習がごく最近まで続いておったところもあるし、明治維新まではかなりの寺院がそういう風習を残しておった。そのことを道元禅師は今から七、八百年前に非常におかしな事として指摘しておられる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は講義の前に、いろいろな問題は坐禅をすることによって問題がなくなるというか、惑わなくてもすむと言われましたが、たとえば私、いま住宅でちょっとけつまずいているわけでございます。その時に坐禅をしても解決はつかない問題ではないかと思いますけれども…(笑)それはどうしたらいいのかと思って、坐禅で片付けばいいがなあと思うんですが(爆笑)ダメなんです。

先生
それはまさにごもっともな事なんだけれども、住宅問題が現在あるということは、現在そういう状態があるということで、それがいつまでも変わらんもんではないわけ。もう絶えず、瞬間瞬間に変わっていくわけだから、今の状態が固定したままず-っと続くわけのものではない。

質問
それを変えようとするんです。

先生
だから、その変えようとすることについての努力が当然あるわけ。それと同時に「さあ困った、さあ困った」ということで朝から晩まで「困った、困った」で気をもむことが、問題をこじらせる原因になって多くの場合災いを及ぼす。そうすると、困った事態と言うものも、静かにそのまま、どう困っているかということと正面衝突するというか、真正面からぶつかるというか、はっきり見るというか・・・。だから、どういう事情でどう困っておるのか、解決策としてはどういうことがあるのか、と言う様な事を冷静な気持ちで見直すこと、これが一番大切です。我々の日常生活の問題は全部そうだと思います。

質問
すると、それは坐禅とは別ですね。

先生
いや、その場合に、そういう態度をとらせる基本的な心の状態、基本的な体の状態がまず大切になってくる。事態と言うものは常に変化しているわけ。今の困った状態が何万年と続くわけのものではない。そうすると現在どういう状態になっているのかということをよく勉強するとか、あるいはどういう解決方法があるかと言う様な事で色々と知識を得るとか、それでどうにも動きが取れなかったら、そのうちに何とかなるということで時期を待つとか、そういうふうな解決の方法でしかないと思う。
その場合一番大切なのは、気持ちが乱れないということ、慌てないということ、真正面から困難にぶつかるということ、そういうことじゃないかと思うんです。私が坐禅をやっていれば一切のものが解決すると言ったのはそういう意味です。だから、我々の生活に困ったことが出てこないということじゃなくて、困ったことが出てきた場合に、それにどう対処するかということについて一番いい態度が取れるということ。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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