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正法眼蔵 礼拝得髄 17

道元禅師の説示は続きます。

単に日本の国だけではなしに、中国においても愚かな僧侶がいて、「今後一切、女性を見る事はやめよう」と願を立てた。しかしながら、この様な願は一体どの様な教えによって立てたものであろうか。俗世間の秩序に従ったものであろうか。釈尊の説かれた教えに従ったものであろうか。釈尊以外の教えに従ったものであろうか。天魔の教えに従ったものであろうか。

女性にどういう罪があると言うのか、男性にどういう徳があるというのか。悪人について言えば、男子でも悪人はいるのである。善人について言えば、女子でも善人はいるのである。釈尊の教えを聞く事を願い仏道修行をしようとする事は、男女の区別は関係ない。もしその人が未だ惑いを断ち切っていない時は、男性であろうと女性であろうと未だ惑いを断ち切っていない境地に他ならない。惑いを断ち切って真実の教えというものを自分の身につけた場合には、男とか女とかの別は少しも問題にならない。

この中国の僧侶の様に、長い間女性を見まいというふうに願を立てた場合には、釈尊の教えに衆生無辺誓願度(生きとし生けるものはその数は無限であるが、誓ってそれらを全部救う)があるが、中国の僧侶のように「今後一切、女性を見る事はやめよう」と願を立てた場合には、女性を外して男性だけ救うということを考えるのか。仮に女性を捨てると言う事になれば、仏道を修行する人と言う事は出来ないし、釈尊のもっておられた慈悲と同じだと言えようか。

これらの中国僧の例というものは、単に理屈の上だけで言葉の上だけで仏道を学んで、その教えに幻惑される事が深かったために、ちょうど酒に酔って気持ちが狂ってしまった時の様な言葉に他ならない。こう言う教えが真実だと信じてはいけない。昔かつて何らかの罪を犯したと言うふうな理由から嫌うような事があれば、一切の菩薩といえども、過去において何らかの罪を犯しているのであるから除外しなければならなくなる。この様にあれもダメこれもダメと言う事で、過去に罪のあるものを全て嫌って次から次へと捨ていったならば、釈尊の説かれた宇宙の秩序はどの様にして、この現実世界において実現する事が出来ようか。

この様に女性を一生見まいという願を立てた例というものは、釈尊の説かれた宇宙秩序を知らない愚かな人間が唱えたところのたわ言であり、悲しむべき事である。



          ―西嶋先生の話―

一流のスポ-ツ選手になる努力というものの中では、立派な人格が形成されていくと私は見ております。一般の人がスポ-ツ選手に憧れることにはそういう事情があると思います。とにかく人間的に偉い面があるんですよ。スポ-ツで一流になる人はもう並大抵の努力じゃないです。スポ-ツ、そういうものを中心にした文化があり得ると思います。それは倫理道徳を尊重する文化と一脈通ずるところがあると思います。今日スポ-ツが意外に人々の人気を博している裏側には時代の趨勢があると私は思います。

坐禅は一切のスポ-ツの原点です。そういう修行の中で一番易しいのは坐禅です。坐禅の修業と相撲の修業とどっちが苦しいかといったらやはり相撲の努力の方が苦しいと思います。その点では、釈尊が広大な慈門を残された。正法眼蔵の弁道話の巻の中に「仏祖はあはれみのあまり広大の慈門をひらきおけり」と言われているのはその意味なんです。坐禅の修業は、誰にでも出来るということです。高齢になった人に対して「毎朝ジョギングしなさい」というような酷な事は言えないけれど、「毎日坐禅をやりましょう」とは言えると思います。

※私の独り言。
今年初めてニュ-イヤ-駅伝を沿道で応援してきました。どの選手にも声援を送らずにはいられませんでした。頑張れ!


読んでいただきありがとうございます。


 
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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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