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正法眼蔵 礼拝得髄 14

道元禅師の説示は続きます。

日本、中国において昔から、帝王の位についた女性があり、その国土は全てこの女性である帝王の所領となり、人はすべてその女性の家臣となる場合がある。これはその女性である帝王が尊いのではなくて帝王の位を尊ぶところから、この様な結果が出てくるのである。尼僧の場合においても、それを人間として敬うことは昔からなく、尼僧が釈尊の説かれた宇宙秩序をつかんでいる事を人々は尊敬するのである。

声聞の最高の境地である阿羅漢に達した尼僧があった場合、声聞の四つの境涯に伴う一切の効果と言うものは、全てその尼僧に具わっている。この尼僧には仏道修行における最終段階の功徳が具わっているのであるから極めて尊いものであるけれども、世間一般の人々は必ずしもこの尼僧を尊敬しない。釈尊の説かれた正しい宇宙の秩序を伝承して、真実を得ようと努力する偉大な志を起こした尼僧を尊敬しないのは誤りである。この最高の真実というものを尊敬しないとするならば、釈尊の説かれた宇宙の秩序を誹謗する愚かな人になってしまう。

また別の問題として、我が国においては天皇の娘、あるいは大臣の娘で皇后に準ずる位のものがあり、さらに天皇の后で出家して院の称号を使用する者がある。これらの人々は、髪を剃って尼僧の姿をしている者もおれば、髪を剃らないで尼僧の姿をしている者もある。しかるに名誉をむさぼり利益を愛する外見だけは僧侶の様子をしている人々は、天皇の娘、大臣の娘で皇后に準ずる位の人の家にいった場合には、頭を履物にすりつける様な形で礼を尽くし、主人と家来との間柄よりももっとへりくだった態度をとる。さらに僧侶の立場でありながら、そういう家に仕えて召し使いの様な立場になって長年の生活をしている者もけして少なくない。これは非常に哀れな事である。

弱小かつ辺境の国に生まれたばかりに、この様な行動が誤った習慣であると知らない事は、インドや中国においてはいまだあったためしがなく、この様な事が行われているのは我が国ばかりである。これは非常に悲しい事である。髪の毛を剃り落として僧侶の姿になっていながら、釈尊の説かれた正しい宇宙の秩序を破ると言う事は深く重い罪ということが出来よう。これはこの我々の住んでいる俗世間は、夢幻のごとく実質のない目先だけの儚い花だと言う事を忘れているために、ただ権門にへつらって大臣の娘、帝者の娘、皇后と言う人々の下男として縛り付けられているのであって悲しいことである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師が750年前に男女平等をお説きになったということは、ほんとに驚いておる事なんですが、「礼拝得髄」の巻をお書きになる頃の当時の世相としては、女性差別があったとか、女性を蔑視するとか、女性を虐待するとか、そういった風潮が現れて、そういった世相を批判するというお考えもあったのではないかと思うんですが・・・・。

先生
それは鎌倉時代の前の時代、つまり平安朝時代の仏教と言うのは極端にそうだったんですよね。だから高野山というのは女性が登れなかったんですよね。それから、ついこの間まで大峰山の大部分は女性が入れなかった。明治維新以前は女性が入れない寺や山はいっぱいあったわけですよ。だから鎌倉時代はもちろんそういう状況が平安朝時代の仏教の影響であったわけですね。そういうものに対して、仏道の立場から見たらおかしいということを道元禅師は感じられて主張された、そういうことなんですね。だから当時の状況は決してこういう平等思想はなかったわけですね。むしろ差別が当然と言う考え方でずっと来ておった。

質問
そうすると、道元禅師が開祖である曹洞宗では、いま全然女性と男性を区別しないんですか。お寺で。

先生
ウ-ン、いまの実情がそういっているかどうかね。その辺は道元禅師の教えがどの程度浸透しておるかと言うところに関係があるわけだから。

質問
女性禁制と言うお寺の事は、結局男の方が身を誤るといけないと、自分で困るからだと思うんですよね。

先生
ええ、まあそういう・・・・。それと世間体がいいんですよ、「ここは女性を入れないぞ」という事でえばってればね。世間体がかなりあるんだと思いますよ。だから「葷酒山門に入るを許さず」と言うのも、あれも世間体だと思う。看板を掛けといて、これが掛かってれば中身はいいはずだとみんなが思う、と言う風な事と関係あるんじゃないかと思う。だけれども、そういう点では中身の方が大事だから。こういう問題も中身の方が大事だということですね。


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
488:世間体 by 阿佐谷北 on 2015/12/28 at 00:53:04 (コメント編集)

以前にも書いたことがありますが、多くのお寺さんでは普通に酒を飲むし、妻帯が普通なので(曹洞宗含む)、その点では一般の人と変わらんと思います。ということは、中身どころか、かつての世間体すらも捨ててしまっているのでしょうか。

とは言え、ある西嶋老師のお弟子さんから、永平寺のエリートは違うよ、と教えられたことがあるのですが、本当でしょうか?

これについて何かコメントございますか?

489:Re: 世間体 by 幽村芳春 on 2015/12/28 at 11:45:02

阿佐谷北サン、コメントありがとうございます。

坐禅をして正法眼蔵を読んでいると素直に仏道に励みたいと思いますが、お寺が今のようになったのは何故なんでしょうね?
やはり、江戸時代にお寺が統治体制の出先機関としてお寺屋という職業になったせいですかね。それによって、お寺と言うものが経済的に安定した生活が保障され、世襲も始まったのでダンダンと酒を飲んだり妻帯もして一般の人と変わらなくなったでしょうかね。
今では、何々寺と言う屋号の個人商店もありますよね。

それから「永平寺のエリートは違うよ」に関しては坐禅会に参加したぐらいしか経験がないので、永平寺の内容については詳しくわかりません、ごめんなさい。ただ永平寺でなくても、そしてお寺でなくても、毎日坐禅をして正法眼蔵を読んでいれば道元禅師の本当の弟子だと思います。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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