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正法眼蔵 礼拝得髄 13

道元禅師の説示は続きます。

中国において居士とは、仏教に帰依しているが出家をしていない男子の事である。その居士と言われる人々の中には、家庭を持って夫婦で暮らしている人もある。また、一人で独身生活をしている人もある。いずれにしても、出家をしていないので俗世間の煩わしさが沢山あって大変な事であろう。しかしながらこの様な在家の人(居士)であっても、仏教に関連して真実をはっきりつかんだ人に説法を聞こうと願う事は、出家して僧侶なっている指導者に対すると少しも変わらない。仮にその居士が女性である場合でも、動物である場合でも同じである。

仮に釈尊の説かれた宇宙秩序に関する基本的な理論をまだ夢にさえ見た事のない人は、年齢がすでに百歳になった僧侶であろうとも、すでに釈尊の教えを身につけた男性、女性に及ぶはずがない。その様な及ばない人を尊敬してはならない。ただ先輩後輩の礼儀を尽くせばそれで足りる。仮に釈尊の説かれた宇宙秩序を実際に行い、釈尊の説かれた宇宙秩序を言葉で表現できる人は七歳の女の子であっても、そのまま僧侶、尼僧、在家の男女の指導者であり一切の生きとし生けるものの慈悲深い父である。

それは法華経にみられる説話の様に、龍王の女の子が仏になり、一切の生きとし生けるものがこれを礼拝した故事に似ている。その七歳の女子に対して、供え物を捧げ礼拝し敬うと言う事は、釈尊をはじめ沢山の真実を得た方々に対して、供え物を捧げ礼拝し敬うと言う事と全く同じであって少しもおかしくない。この様なやり方が釈尊の説かれた教えにおける古くからのやり方である。この教えを知らないで、一系に伝えてこなかった人々は気の毒な話である。


 
          ―西嶋先生の話―

仏教を勉強していると、自分の商売との関係をどう考えたらいいかと言う事が問題になる訳であります。 仏道というのは、我々が生きている現実の生活をよくにらんで、その中でその現実の生活の中にある秩序に従って生きると言う事です。 あの世界、この世界とけじめをつける生き方ではなく、何のたれ兵衛と言う個人の生活はどの世界にいてもたった一つしかない。 その人が家庭にいようと、仕事場にいようと、学校にいようと、どこにいてもその人にはそれなりの一つの生き方がある訳です。 それを貫くと言うのが仏道です。

よそ行きの生活と、自分の家の中の生活とはあまり分けないと言う事、それが仏道と言う事の一つのあり方でもある訳です。 どう生きていくかと言う事を考える場合に、家庭の中の生活と、人が見ている場所での生活とは別々だと言う考え方がかなり強い。 だから、人に見えるところでは大いに立派な行動をするけれども、人の見ていないところでは、こっそり適当にやると言う考え方が世間一般には非常に多い。 それがまた、当然の事とされている訳です。 ただ仏道というのは、そういう生き方ではなしに、人が見ていようと人が見ていまいと、全然そんな事は関係ないと言う生き方を目標にする訳です。

商売との関係でも、商売と自分の個人生活は別々だと言う事で色分けして生活をする事ではない。 商売の時は商売に一所懸命、家庭に入ったら家庭の生活に一所懸命、どこでも一所懸命というのが仏道生活と言う事になろうかと思います。 いや、そんな事言っていたら、とても世の中渡っていけない、人の見ていないところでは、時々ずるい事をやらなければ生きていけない、と言う考え方もあるかもしれないが、反面から見ると我々の生活は、そうのんきなものではない。手を抜けば手を抜いただけの結果が必ず出てくる。そうすると人が見ていようと見ていまいと、一所懸命やる事に尽きると言う事になろうと思います。そういう点では、商売であろうと個人の生活であろうと一所懸命やる事に尽きると言う事にならざるを得ない。

朝から晩までそんなに一所懸命やっていたら、とても命が続かないのではないかと言う考え方もあるけれども、幸いな事に動物と同じ様に人間も24時間のうち三分の一は仕事をしないでグ-グ-寝ている訳です。我々は寝ている時間は頭が働いていないから、そういう時間が我々にあると言う事にあまり気が付かない。しかし、6、7時間は誰でも寝ているわけで、その間は十分休めるわけだから、眼の開いているうちは一所懸命働いても決しておかしくないし体を壊すと言う事もない。

「ストレス理論」というのが、今盛んに言われています。人間はあまり緊張していると、ストレスがたまって病気になると言う様な理論です。寝るべき時間に寝れないと言うのは問題。寝るべき時間によく寝ていればストレスなどたまる心配はない。反面、寝るべき時間になぜ寝られないかと言うと、眼の覚めている時に覚めている状態に合わせた生活をしているかどうかと言う事に問題がある。睡眠を24時間のうち三分の一ぐらいとっていれば、ストレスなんていうのはすぐ解消する。そういう点では、我々の生活と言うものは、そう心配する事はない。眼の開いているうちは一生懸命働くと言う事で一番健康な生活ができると考えて間違いないと考えられる訳であります。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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