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正法眼蔵 礼拝得髄 12

女性の僧侶について、道元禅師の説示は続きます。

たとえば正法眼蔵(釈尊の説かれた正しい宇宙秩序の一番肝心かなめのところ)を伝承し保持している尼僧は、声聞、縁覚、菩薩の境涯の人が尼僧のところに来て礼拝し、宇宙秩序を訪ねた場合に、尼僧はその礼拝を当然受けるべきである。男性がどうして特別に尊いということがあろう。空間は空間であって、それ以外の何物でもない。物質は物質であって、それ以外の何物でもない。存在は存在であって、それ以外の何物でもない。男性が男性以外の何物でもないと同じ様に、女性もまた女性以外の何物でもない。それ本来の存在に他ならない。

男性であろうと女性であろうと、釈尊の説かれた宇宙秩序を得るものは、釈尊の説かれた宇宙秩序を得る。ただただ、釈尊の宇宙秩序を自分のものにした人を敬い尊重すべきである。男性だから偉いとか、女性だから偉いとかそう言う区別はない。これが、釈尊の説かれた教えの中でも最も秀れた法則の一つである。



          ―西嶋先生の話―

先日、文化勲章の授章者とか、文化功労者の受賞者というふうな発表がありましたが、ああいう人たちの業績を見ていると、それぞれ普通の人よりも努力を重ねて、一人の人間としてある種の業績を成し遂げたという点では、人間的に非常に偉い人が多い。業績のいいということもさることながら、人間的にしっかりとしているということがあるのではないかということを感ずる面があります。そのことは、もちろん授かった才能と言う様なものもあるし、あるいは育った環境と言う様なものの良し悪しも勿論あるけれども、結局は本人が一日一日と積み重ねの努力をして、数十年たったということの結果に他ならないというふうにも考えられる。

そうする、と各人誰でも一日一日をどう過ごすかによって各人の人生が決まるということは疑問の余地のないところ。ただ自分がどういうことをしたらいいのかということがはっきりしないままに不安に駆られたり、あるいは腹を立てたり、あるいは愚痴を唱えたりというふうな事で、なんとなく時間がつぶれてしまって数十年たってしまうという場合も決して少なくない。そうすると我々が人生をよく送るためには、自分自身が気持ちを落ち着け、体をお落ちつけて、毎日何をしたらいいかということが理屈ではなしにわかるということがかなり大切な事。

その点では坐禅と言うものは、たとえ話で言ってみれば、コップの中に水を入れて、その中に灰を入れたとする。それを割り箸でかき回しておると水はいつも濁っている。ただかき回すのをやめて五分か十分も置いておけば、灰は下の方に沈んで透明になる。坐禅と言うのは何かと言えば、かき回す事をやめると言う事。 普段、我々は自分自身で心や体をかき回しているから、不安があったり、落ち着かなかったり、あるいは腹が立ったり、愚痴が出たりと言う事になるわけだけれども、かき回す事をやめれば自然に静かになってくる。 だから坐禅と言うのは、そういう点では、心や体をかき回す事を止めると言う事。そういう形で毎日自分とにらみ合っておれば、毎日何をしたら良いかと言う事がはっ きりわかる。
  
そして、そう言う事の積み重ねが自分自身の人生を一番いい結果に導く、そう言う事 にもなろうかと思うわけです。その点では、人間が一生を賭けてどう言う事をやるかと言う事の一つの基準としては、自分自身を見失わない様にして、自分自身が毎日何をやったらいいかと言う事を常にとらえておる、と言う事がかなり大事なのではなかろうか、とそう言うふうに感ずる。
   

読んでいただきありがとうございます。


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コメント
486:それはどの方なのか? by 阿佐谷北 on 2015/12/23 at 22:32:44 (コメント編集)

>釈尊の宇宙秩序を自分のものにした人を敬い尊重すべき

男女年齢の区別なしに、、そこは了解していますが、一体どういう方がそういう方であるのか。日々の出会いの中で、そういう方に巡り会えかどうかが大問題だと思います。お寺に行けば、出会える確率が高いのでしょうか? コメントいただければ幸いです。

487:Re: それはどの方なのか? by 幽村芳春 on 2015/12/25 at 11:14:35

阿佐谷北さん、コメントありがとうございます。

釈尊の宇宙秩序を自分のものにした人には出会えると思います。
それは毎日坐禅をする人だと思います。坐禅を毎日するということは、釈尊の説かれた宇宙秩序を信ずるからこそ毎日坐禅が出来るのだと思います。
だから阿佐谷北さんが毎日坐禅をしていれば、もうすでに釈尊の宇宙秩序を自分のものにした人であると思います。

西嶋先生は、正法眼蔵に書かれていることを実践されているすばらしい師匠でした。今でも礼拝せずにはいられません。
肩書が僧侶であっても、実際の行動が釈尊の教えを実践していなければ礼拝得髄の人ではないと思います。
私は素直に真実を得たからこそ、坐禅が毎日できるのだと思っています。

良い年をお迎えください。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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